2026.07.04
クリニック奮闘記
Vol.1198 賃上げ時代の人材マネジメント ― ベースアップ評価料と定着する組織づくり
令和8年度診療報酬改定の二大テーマの一つは、医療従事者の処遇改善、すなわち賃上げである。本体改定率プラス3.09%のうち、およそ1.70%が賃上げ対応分に充てられたことは、国が医療分野の人材確保をいかに重視しているかを物語っている。本稿では、この賃上げの流れを踏まえ、クリニックにおける人材マネジメントのあり方について、人的資源管理の視点から論じたい。
なぜ、これほどまでに賃上げが重視されるのか。その背景には、全産業的な賃金上昇の中で、医療・介護分野が取り残されつつあるという強い危機感がある。公定価格で運営される医療分野では、一般物価や人件費の上昇を診療報酬というサービス価格に転嫁することが構造的に困難である。その結果、報酬水準の据え置きが続く中で、医療機関の人件費負担だけが上昇し、経営を圧迫してきた。全産業平均で年3%から4%の昇給が続く環境において、医療分野だけが賃金を据え置けば、優秀な人材は他産業へと流出しかねない。今回のプラス改定における賃上げ対応分は、まさにこの人材流出を食い止めるための施策なのである。
この賃上げを制度的に支えるのが、2024年度改定で新設され、今回さらに拡充された「ベースアップ評価料」である。これは、一定以上の職員賃金引き上げ計画を届け出た医療機関が、初診料・再診料に加算を受けられる仕組みであり、その加算分は全額を看護師・医療事務・技師等の給与引き上げに充当することが義務づけられている。今回の改定では、この評価料の点数が引き上げられ、対象職種も拡大された。従来課題とされていた煩雑な届出手続きについても簡素化が図られている。院長の視点から見れば、この評価料を適切に届け出て算定することは、スタッフの処遇改善の原資を制度的に確保する手段となる。逆に言えば、この届出を怠れば、賃上げの原資を自院の医業利益の中から捻出せざるを得なくなり、経営への圧迫要因となる。人材マネジメントと財務管理が、ベースアップ評価料という一点で交差しているのである。
ただし、ベースアップ評価料の運用には、いくつか実務上の留意点がある。この加算は、算定によって得られた収入を確実に賃金引き上げに充てることが求められ、その実績を報告する義務がある。すなわち、届け出て算定して終わりではなく、計画通りに賃金が引き上げられているかを継続的に管理し、記録として残さなければならない。この管理を適切に行うためには、給与体系と加算収入の関係を正確に把握し、どの職種にどれだけの原資を配分するかを設計する必要がある。ここでも、レセプトデータと給与データを突き合わせて管理できる体制が物を言う。制度を正しく活用するには、事務スタッフが制度の趣旨と要件を理解していることが前提となる。処遇改善のための制度を運用するためにも、スタッフの制度理解、すなわち人材の育成が欠かせないという、いわば入れ子の構造がここにある。
しかし、人的資源管理の本質は、賃金の引き上げそのものにあるわけではない。賃金は人材定着の必要条件ではあっても、十分条件ではない。ここで、スタッフが離職するクリニックに共通する構造的な問題について、実例を通じて考えてみたい。ある住宅地の内科クリニックでは、医療事務の退職が続いていた。院長は患者数の増加に伴う業務量の増大を原因と考えていたが、実際の問題は業務分担の不明確さにあった。受付業務、会計、レセプト作成といった業務が明確に区分されておらず、その日の状況に応じて誰かが対応するという運営が常態化していたのである。長年勤務するベテランスタッフにとっては問題にならないこの体制も、新しく入職したスタッフにとっては、自分が何をどこまで担当すればよいのかが分かりにくい。結果として業務負担が特定の個人に偏り、不満が蓄積し、離職へとつながっていった。
別の事例も見ておこう。あるクリニックでは、表面的には業務量の多さが離職の原因とされていた。しかし、退職したスタッフの一人が後に語ったところによれば、真の要因は業務量ではなく、院長とのコミュニケーションのあり方にあったという。このクリニックでは診療中の緊張感が強く、院長は些細なミスであってもその場で強い口調で注意することがあった。院長自身は診療の質を維持するための当然の指導と考えていたが、スタッフにとっては大きな心理的負担となっていた。しかも、こうした不安は一人だけのものではなく、複数のスタッフが同様に感じていた。医療機関において診療の質を守ることは絶対に譲れない一線であり、安全に関わる指導は厳格でなければならない。しかしそれは、人格を否定するような叱責とは区別されなければならない。求められるのは、何が問題で、どう改善すればよいのかを明確に伝える建設的な指導であり、その積み重ねが信頼関係を育てる。
この事例が示すのは、離職が突然起こる出来事ではなく、職場の中で徐々に蓄積された組織的問題が表面化した結果であるという事実である。特にクリニックにおいては、院長が診療に専念するあまり、組織内部で起きている変化に気づきにくいという構造的な弱点がある。診療が順調に行われている限り、職場環境に問題があるとは感じにくい。しかし、スタッフの退職が続く場合、その背景には必ず何らかの組織的要因が存在する。したがって、人材の定着を考えるうえでは、個々のスタッフの能力や性格だけに目を向けるのではなく、業務の進め方や情報共有の仕組みそのものを見直す視点が不可欠となる。
では、院長は具体的に何をすべきか。ここで重要なのは、クリニックの職場環境が短期間で劇的に変化するものではないという前提に立つことである。大規模な企業組織のように精緻な人事評価制度を整備することは、少人数のクリニックでは現実的に難しい。したがって鍵となるのは、日常業務の中で積み重ねられる小さな取り組みである。業務分担を明文化すること、レセプトチェックの内容をスタッフ全員で共有すること、朝礼などの場で情報を行き渡らせること。こうした地道な仕組みづくりの積み重ねが、結果として職場の雰囲気とスタッフの定着に影響を与えていく。
とりわけ本稿で提起したいのは、レセプト業務を人材育成の中核に据えるという発想である。多くのクリニックでは、レセプト担当者が一人しかいない。この体制は、担当者の体調不良による休職や突然の退職に対して脆弱であり、業務の属人化という深刻なリスクを内包している。ベテランの担当者が一人で業務を抱え込み、他のスタッフがその内容を把握していないという状況は、決して珍しくない。この属人化は、担当者が突然いなくなったときにクリニックのレセプト業務が停止するという事業継続上のリスクであると同時に、業務の中身が第三者の目にさらされないという内部統制上のリスクでもある。この状況を改善するための第一歩が、毎月のレセプトチェックの内容をスタッフ全員で共有することである。レセプトは医師の診療行為そのものが記録されたものであり、これを読み解く力を養うことは、事務スタッフを単なる作業者から、クリニックの経営を理解する人材へと成長させる。実際、医療事務スタッフは、レセプトに関しては医師よりも経験も知識も豊富な場合が多い。スタッフがレセプトの内容を医師に説明し、医師がスタッフから学ぶ――こうした双方向の関係が、スタッフのモチベーションを高め、結果としてクリニックの経営効率を向上させる。
人材育成において重要なのは、いきなり大きな役割を任せるのではなく、小さな役割から段階的に任せていくという姿勢である。「まだ早い」と成長の機会を止めてしまうのではなく、適切な難度の業務を段階的に委ねることが、スタッフの成長のきっかけとなる。レセプトチェックの一部を若手スタッフに担当させ、その結果をベテランが確認するという運用は、業務の属人化を解消すると同時に、若手の育成にもつながる。任せることには一定のリスクが伴うが、そのリスクを恐れて業務を特定の個人に集中させ続けることのほうが、長期的にはるかに大きなリスクを生む。人を育てるとは、任せる勇気を持つことでもある。
医療DXの波は、事務スタッフの業務のあり方を大きく変えつつある。今日の医療事務の仕事が5年後、10年後もそのままの形で残っている保証はない。だからこそ、院長にはスタッフのキャリアアップに積極的に関与することが求められる。賃上げによって処遇を改善すると同時に、レセプト業務を通じてスタッフのスキルを高め、事務員を院長の経営参謀へと育てていく。処遇改善と人材育成を両輪として回すこと。それが、賃上げ時代における人材マネジメントの要諦であり、「辞めない職場」を築くための現実的な道筋なのである。
