2026.02.24
クリニック奮闘記
Vol.1105 医療機関M&Aにおけるレセプトデューデリジェンス体制の構築 ―売主・買主双方に求められる実務的要件と今後の標準モデル―
要旨
医療機関のM&Aにおいて、レセプトデューデリジェンスの重要性は徐々に認識されつつあるものの、その実施主体や具体的手順については未だ統一的な実務標準が確立されていない。本稿では、これまでの検討を踏まえ、売主・買主双方の観点からレセプトデューデリジェンスの必要性を整理し、実務において機能する体制構築の方向性を提示する。特に、企業価値の適正化、価格交渉の合理化、買収後リスクの低減という三つの観点から、レセプト精査をM&Aプロセスに制度的に組み込む意義を論じる。
1.はじめに
医療機関M&Aの実務は、近年、案件数の増加とともに高度化している。一方で、買収後に医業収入が想定を下回る、あるいは審査機関対応に追われるといった事例が継続的に報告されている。これらの多くは、財務データを中心とした従来型デューデリジェンスでは把握しきれない請求構造の問題に起因している。
このような状況下において、レセプトデューデリジェンスは単なる補助的調査ではなく、医療機関M&Aの品質を左右する基幹プロセスとして再定義される必要がある。本稿では、売主・買主それぞれに求められる実務対応を整理する。
2.買主側に求められるレセプトデューデリジェンス
2.1 投資保全の観点
買主にとって最も重要なのは、取得対価の回収可能性である。医療機関の収益が診療報酬請求に依存している以上、将来キャッシュフローの確実性を担保するには、請求精度の検証が不可欠となる。
特に、営業権比率が高い案件では、わずかな請求適正化でもEBITDAが大きく変動し得る。したがって、買主側は少なくとも以下の観点からレセプト分析を実施すべきである。
第一に、減点率・返戻率の時系列推移。
第二に、算定構成比の同規模比較。
第三に、高点数項目の要件充足状況。
第四に、カルテ記載との整合性。
これらを事前に検証することで、のれん評価の過大化リスクを抑制できる。
2.2 PMI(統合後運営)への示唆
レセプトデューデリジェンスは、買収判断のみならず、PMI設計にも重要な示唆を与える。請求体制の成熟度、医療事務の属人性、算定ルールの運用状況を把握することで、買収後に必要となる体制整備コストを事前に見積もることが可能となる。
実務上、買収後に請求精度の是正を行った結果、短期的に売上が減少するケースは少なくない。この調整局面を事前に織り込んだ事業計画を策定できるか否かが、M&A成功の分岐点となる。
3.売主側に求められるレセプトデューデリジェンス
3.1 企業価値最大化の観点
レセプトデューデリジェンスは買主側のリスク管理手段と理解されがちであるが、売主にとっても極めて重要な意義を有する。請求精度が客観的に担保されている医療機関は、収益の持続可能性に対する信頼性が高まり、結果として評価倍率の向上につながる可能性がある。
逆に、デューデリジェンス過程で算定の不備が発見された場合、価格調整や補償条項の強化を求められるリスクが高まる。売却プロセスを円滑に進める観点からも、売主側による事前のセルフレビューは合理的な対応といえる。
3.2 データ開示責任の高度化
近年の医療機関M&Aでは、買主側から求められるデータ開示の水準が年々高度化している。単なる医業収入推移だけでなく、レセプト電算データ、減点内訳、算定マニュアル、施設基準管理状況等の提示が求められるケースも増えている。
この潮流を踏まえると、売主側は平時から請求精度のモニタリング体制を整備し、説明可能性(accountability)を確保しておく必要がある。
4.実務における標準的プロセスモデル
医療機関M&Aにおけるレセプトデューデリジェンスは、以下の三段階で設計することが実務上有効である。
第一段階はスクリーニング分析であり、算定構成比、減点率、点数推移を用いてマクロ的な異常を検知する。
第二段階はサンプルレビューであり、高リスク項目を抽出して要件充足を個別確認する。
第三段階は是正影響試算であり、請求適正化後の医業収入をシミュレーションする。
この三層構造により、財務数値と請求実態の乖離を定量的に把握することが可能となる。
5.今後の医療M&A実務への示唆
医療機関の承継市場が拡大する中、デューデリジェンスの質が案件成否を左右する重要度は一層高まっている。特に、診療報酬制度の複雑化、審査運用の厳格化、人材不足による事務体制の脆弱化といった環境変化を踏まえると、レセプト分析の重要性は今後さらに増大することが予想される。
今後の実務においては、財務・税務・法務に加え、「レセプト」という第四のデューデリジェンス領域を標準装備とする統合的評価モデルの確立が求められる。
6.結論
医療機関M&Aの成功確率を高めるためには、レセプトデューデリジェンスをプロセスの中核に位置づける必要がある。これは買主にとっては投資保全の手段であり、売主にとっては企業価値の信頼性を担保する手段でもある。
財務数値の分析のみでは把握できない医業収入の質を可視化することこそが、持続可能な医療機関承継の前提条件である。今後、レセプト精査を組み込んだ統合的デューデリジェンス体制が、医療M&Aの実務標準として定着していくことが強く期待される。
