2026.03.10
クリニック奮闘記
Vol.1111 なぜクリニックではスタッフが辞めてしまうのか ―医療機関における離職の構造的要因―
近年、多くのクリニックにおいてスタッフの離職が経営上の大きな課題となっている。看護師や医療事務の採用難が続くなか、いったん採用したスタッフが短期間で退職してしまうことは、診療体制の維持のみならず、職場の士気や患者サービスにも影響を及ぼす。実際に医療機関の経営相談の現場では、「なぜスタッフが辞めてしまうのか」という問いが繰り返し提起されている。しかし、退職の原因は単純なものではなく、表面に現れる理由と実際の要因が異なる場合も少なくない。本稿では、クリニックにおける離職の背景を、具体的な事例を交えながら検討する。
まず理解しておくべき点は、スタッフの退職理由として最も多く挙げられるのは「家庭の事情」や「体調の問題」などであるという事実である。多くの院長はこれらの理由を聞くと、やむを得ない事情であると受け止める。しかし実際には、こうした理由は必ずしも本質的な原因を示しているわけではない。職場環境や人間関係への不満を直接的に伝えることを避けるため、より穏当な理由が選ばれている場合も多いのである。
ある内科クリニックの事例がある。郊外の住宅地に立地し、患者数も安定していたが、数年の間に看護師が相次いで退職するという問題が発生した。院長は給与水準にも問題はなく、診療も過度に忙しいわけではないと認識していたため、退職の理由を理解できずにいた。退職時にスタッフから伝えられた理由は「家庭の事情」や「通勤の問題」であり、院長はやむを得ない事情であると受け止めていた。
しかし、後に退職したスタッフの一人が同じ地域の別の医療機関に勤務することになり、そこで初めて本音が語られることになった。問題は業務量ではなく、院長とのコミュニケーションの取り方にあったというのである。このクリニックでは診療中の緊張感が非常に強く、院長は些細なミスであってもその場で強い口調で注意することがあった。院長自身は診療の質を維持するための当然の指導と考えていたが、スタッフにとっては心理的な負担となっていたのである。結果として、退職を決断するまでの間に、複数のスタッフが同様の不安を感じていたことが明らかになった。
同様の構造は整形外科クリニックでも見られる。ある都市部の整形外科では、リハビリスタッフと受付事務の離職が続いていた。院長は患者数の増加に伴い業務が忙しくなっていることを理由に挙げていたが、実際の問題は業務の分担にあった。リハビリスタッフの業務範囲が曖昧であり、本来は受付が担当するべき業務を手伝うことが日常的になっていたのである。こうした状況が続くと、業務負担の公平性に対する不満が生じる。しかも、小規模な組織ではその不満が共有されやすく、職場全体の雰囲気に影響を与えることになる。このクリニックでも、最初は一人のスタッフの退職であったが、その後半年ほどの間に複数の退職が続くことになった。
さらに訪問診療を中心とするクリニックでは、別の形の問題が生じることがある。訪問診療では医師と看護師、事務スタッフがチームとして行動することが多く、業務の連携が診療の質を左右する。そのため、組織内のコミュニケーションが十分に機能していない場合、スタッフの負担は急速に増大する。ある訪問診療クリニックでは、看護師が短期間で退職する状況が続いていた。院長は訪問件数の多さを原因と考えていたが、実際には訪問スケジュールの調整が特定の事務スタッフに集中しており、情報共有が十分に行われていなかったことが問題であった。訪問先の情報が適切に共有されないまま業務が進むことで、現場での対応に混乱が生じ、それが看護師の心理的負担につながっていたのである。
これらの事例から明らかなように、スタッフの離職は単に労働条件の問題として理解することはできない。むしろ、職場におけるコミュニケーションのあり方や業務の分担、組織としての仕組みなど、複数の要因が複雑に関係している場合が多い。特にクリニックは医師を中心とした小規模組織であるため、院長の行動や判断が職場環境に与える影響が大きい。大規模な医療機関であれば組織の中で吸収されるような問題でも、クリニックでは直接的に職場の雰囲気に反映されることになる。
また、離職の問題は単に人材の確保という観点だけでなく、診療の質や患者満足度にも影響する。スタッフが頻繁に入れ替わる職場では、業務の習熟度が十分に高まらないため、受付対応や診療補助の質が安定しない。患者にとっても、いつ来院しても顔ぶれが変わっているような医療機関は、安心感を持ちにくい。結果として、離職の問題は経営上の課題であると同時に、医療サービスの質にも関係する問題であると言える。
したがって、スタッフの退職を単発の出来事として捉えるのではなく、組織の状態を示す一つの指標として理解する必要がある。退職者が出たときに「個人的な事情」で片付けてしまうのではなく、職場の中にどのような構造的要因が存在しているのかを検討することが重要である。
次回は、こうした離職の背景にある**「人が辞めるクリニックに共通する組織的問題」**について、さらに具体的に検討していく。実際の医療機関の事例を通じて、職場環境がどのように形成され、どのような要因が離職につながるのかを考察したい。
