2025.10.14
クリニック奮闘記
vol.1011 クリニック事業承継におけるスタッフ雇用の注意点
はじめに:事業承継で一番のリスクは「人」
クリニックの事業承継で最も重要なのは、患者でも設備でもなく「スタッフの継続性」です。
受付・看護師・医療事務・リハビリ助手など、現場を支えるスタッフが安心して働けなければ、承継後の診療体制は崩れます。
実際、事業承継の現場では次のようなトラブルが頻発します。
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「新しい院長と合わない」とスタッフが大量退職
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雇用契約の引継ぎを誤り、未払い残業・退職金請求が発生
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承継時に一部スタッフの雇用を終了しようとして労働トラブル化
こうした問題を避けるには、法的な雇用関係の継承ルールとスタッフ心理への配慮の両面を理解しておくことが不可欠です。
以下では、
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医療法人の場合
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個人診療所の場合
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継続雇用・非継続雇用の判断基準
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実務上の手続と説明のポイント
の順に解説します。
① 医療法人の場合:雇用契約は「原則として自動承継」
(1)法人格が変わらなければ、雇用関係も継続
医療法人の場合、事業承継は多くが「出資持分譲渡」または「理事長交代」によって行われます。
このとき、法人格(法人番号)は変わらないため、スタッフとの雇用契約は自動的に継続します。
つまり、契約上の雇用主は変わらず、理事長が交代しても雇用契約は存続する扱いです。
ただし、労働契約書の代表者名が旧理事長名義になっている場合には、形式上の更新(代表者名の訂正・新理事長署名)を行うことが望ましいです。
(2)労働条件を変更する場合の注意点
承継を機に就業規則や給与体系を見直すケースがありますが、一方的な不利益変更は労働契約法第9条に抵触します。
例えば、以下のような変更はトラブルになりやすい典型例です。
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基本給の引き下げ
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勤務シフト・休日体系の変更
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賞与・手当の廃止
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雇用区分(正社員→パート)への変更
これらを行う場合は、スタッフの個別同意または合理的な理由と説明が必要です。
(3)理事長交代時の説明責任と信頼づくり
法人として雇用関係が継続しても、スタッフにとっては「新しい院長のもとで働く」という心理的変化が大きいものです。
承継前後で離職を防ぐためには、以下のような丁寧な対応が不可欠です。
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理事長交代前に、スタッフ向け説明会を実施
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新理事長からの挨拶文・経営方針の共有
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評価制度・給与体系の変更予定を明示
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面談(個別ヒアリング)による不安の吸い上げ
このステップを省略すると、「経営方針が変わりそう」「居心地が悪くなる」と感じたスタッフが離職する傾向があります。
(4)退職金・有給・社会保険の承継
医療法人では、承継後も同一法人であるため、次のような取扱いになります。
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退職金:勤続年数は通算される
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有給休暇:残日数をそのまま引き継ぐ
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社会保険:法人として加入継続、被保険者番号も変更なし
ただし、承継を機に「退職扱い」として新契約に切り替える設計をする場合(まれに見られる)は、法的に不当解雇と判断されるリスクがあります。専門家と慎重に進める必要があります。
② 個人診療所の場合:雇用契約は自動的には引き継がれない
(1)個人事業主が変わると、雇用契約は終了する
個人診療所では、雇用主が「旧院長個人」であるため、承継によって事業主が変われば、雇用契約は自動的に終了します。
これは「労働契約の当事者が変更される」ため、法律上は旧院長との契約が消滅するという扱いになります。
したがって、新院長(新事業主)は、スタッフ一人ひとりと新たに雇用契約を結び直す必要があります。
(2)契約更新・継続雇用の判断基準
新しい院長が全員を引き継ぐとは限りません。経営方針や人件費の見直しにより、再雇用するスタッフとしないスタッフを分ける場合があります。
しかし、このとき注意すべきは、
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「形式的に解雇扱い」とされるリスク
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「引継ぎ拒否による不当差別」とみなされるリスク
です。
以下のようなプロセスを踏むことで、法的・心理的なトラブルを防ぐことができます。
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承継前に旧院長と新院長がスタッフ構成を協議
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継続雇用するスタッフには「新契約書」+「条件通知書」を提示
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雇用を終了する場合は、旧院長名義で「合意退職書」を取り交わす
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労働基準監督署への届出・雇用保険資格喪失届を適切に処理
(3)社会保険・雇用保険・退職金制度の取扱い
個人診療所では、承継のタイミングで社会保険や雇用保険の事業所番号が新しく発行されます。
そのため、全スタッフの資格喪失・新規取得手続きを行う必要があります。
また、退職金制度を導入していた場合は、旧院長の退職金規程に基づき、勤続年数をどう扱うかを明記しなければなりません。
「前勤務分も通算するのか」「新院長の雇用開始日からリセットするのか」――この一点の説明不足が大きな不満を生みます。
(4)雇用しないスタッフの扱いと法的リスク
承継にあたり、一部のスタッフを再雇用しない場合には、旧院長の責任で雇用終了の手続きを行う必要があります。
このとき注意すべき点は次の通りです。
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事業承継による整理解雇は原則として無効
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合理的理由と相当な手続がなければ解雇トラブルに発展
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事前説明と合意退職書の作成が最重要
「経営が変わるから一部カット」という理由だけでは、法的には解雇理由として認められにくいのが実情です。
実際の判断は、業務上の必要性・能力・勤怠・勤務態度など、客観的な根拠が必要です。
③ 雇用承継の実務ステップ
ステップ1:承継前の情報整理
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現行スタッフ一覧・雇用形態・契約内容を確認
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労働条件通知書・賃金台帳・勤怠データを整理
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社会保険・雇用保険の加入状況を確認
ステップ2:雇用契約書・就業規則の見直し
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新院長(または新法人)名義の契約書を準備
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試用期間・給与条件・勤務時間を明確化
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就業規則の適用範囲・改訂内容を掲示
ステップ3:スタッフ説明会の開催
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承継の目的と方針を共有
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雇用条件・給与・勤務体制の変更点を説明
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不安や質問を受け付ける時間を設ける
ステップ4:承継当日・直後の対応
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新代表者からの挨拶と方針共有
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雇用保険・社会保険の手続実施
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勤怠・給与計算システムの切替
まとめ:スタッフは「資産」であり「リスク」でもある
事業承継における雇用問題は、法令遵守の観点だけでなく、人間関係と信頼の継続という心理的要素が大きく影響します。
とりわけ、開業医のクリニックでは、スタッフが地域医療の"顔"であることが多く、雇用の不安定化は患者離れに直結します。
承継時には、
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雇用契約の法的整理
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労務・社会保険手続の正確な処理
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スタッフとの誠実なコミュニケーション
この3点を徹底することで、経営の安定と信頼を同時に確保できます。