2025.11.25
クリニック奮闘記
vol.1039 「その経営、あと3年もちますか?」―クリニックが陥りがちな落とし穴と処方箋
開業医の多くは、日々の診療に忙殺されながらも経営の安定を願っている。しかし、現場でよく目にするのは、「今は大きな問題は起こっていない」という安心感の裏で、経営の基盤が静かに弱体化していく現象である。クリニックの経営悪化は突発的に生じるものではなく、多くの場合、3〜5年かけて緩やかに進行する。院長自身がその変化に気づいた時には、すでに修復に相応の時間を要する段階に至ってしまっていることも珍しくない。
本稿では、近年の診療所経営に見られる構造的変化と、その中でクリニックが陥りがちな落とし穴を実例とともに考察するとともに、今後の持続可能な経営に向けた実践的処方箋を提示する。
1. 「変わらない経営」は、実は後退しているという現実
ある内科クリニックA院は、開業から10年を経過し地域での認知度も高かった。院長は「毎年ほぼ横ばいで経営できている」と口にしていたが、詳細に収支を分析すると、売上は過去3年間で約7%の減少、同時に人件費と物件費は10〜12%上昇していた。こうした「微妙な変化」は日々の診療に紛れて気づきにくく、院長の感覚の中では「ほとんど変わっていない」ように思える。しかし、固定費が増える一方で売上が横ばいであれば、実質的には体力は確実に削られていく。
このような事例は決して珍しくない。診療報酬改定による点数の細分化とマイナス改定、地域の競合増加、人件費上昇、電気代の高騰など、外部環境は確実にクリニック経営の収益構造を圧迫している。つまり、3年前と同じ経営を維持しているように見えても、それは「現状維持」ではなく「実質的な後退」である場合が多い。
2. 来院数の微減を"誤差"と見做す危険性
クリニックB院では、1日あたりの平均来院患者数が3年前の60人から直近では52〜53人程度へと減少していた。しかし院長は「季節変動によるもの」「去年が多すぎた」と解釈し、深刻な問題とは受け止めていなかった。
しかし、8人の減少は日単位では小さく見えるものの、年間で換算すると2000名近い減少に相当する。医業収益の多くは患者数と診療単価で決まるため、この変化は数百万円〜1000万円以上の売上減に直結することが多い。さらに調査すると、近隣に新規開業したクリニックが二つ増え、Googleの口コミ評価も以前より低下していた。スタッフの接遇に変化があったことも判明し、減少には明確な原因が存在していた。
患者数の微減は誤差では済まされない。そこには、経営を揺るがす「兆候」が潜んでいるのである。
3. スタッフの不満を見過ごすことが招く崩壊
経営悪化の初期サインは、数字よりもむしろスタッフの表情や態度に現れることがある。クリニックC院では、レセプト担当のベテラン事務職員が突然退職する数ヶ月前から、会議での発言が減り、他職種との関係もぎこちなくなっていた。しかし院長は、「家庭の事情だろう」と軽く考え、深い対話を行わなかった。
結果として、退職後はレセプトの品質が急激に低下し、返戻が増加。さらに、その職員が担っていた"暗黙知"が引き継がれなかったため、診療報酬の取りこぼしも生じていた。属人化していた業務が一人の離職によってクリニック全体を巻き込む典型例である。
スタッフの不満は自然に消えることはなく、放置すれば必ず組織に影響を及ぼす。医療機関という人に依存した産業では、スタッフの変化こそ最大級の経営リスクであると認識しなければならない。
4. 「かつての成功体験」が現在の足かせになる現象
長く地域に根づいたクリニックほど、過去の成功体験を手放せなくなる傾向がある。院長が「昔からこのやり方で問題なかった」と考えてしまうと、外部環境の変化を見落とし、新たなツールや仕組みを取り入れることに抵抗が生まれる。
例えばオンライン予約、キャッシュレス決済、Web問診、LINEによる情報提供といったデジタル化の導入は、今では患者の利便性を高めるだけでなく、スタッフの負担軽減にも寄与する。しかし、導入に消極的なクリニックでは、待ち時間の長さや受付の混雑が患者離れにつながることがある。
ある皮膚科クリニックD院では、長年「受付での対面対応」を重視していたが、周囲の競合がオンライン予約を導入したことで、若年層の患者が徐々に流れていった。院長が遅れを認識して改善に着手した時には、すでに1日の平均来院数が15%減少していた。
環境が変われば、成功の条件も変わる。「今のままがベスト」という考え方は、すでにベストではないことを意味している。
5. データではなく"感覚"で経営するリスク
クリニック経営を「感覚で把握している」と語る院長は少なくない。しかし、感覚が正確な状況を捉えているとは限らない。むしろ、忙しい現場の中で院長に入ってくる情報は偏りやすく、体系的な判断が困難になる。
例えば、患者数の増減、新患率、会計単価、再診率、保険点数構成、返戻率、スタッフの生産性などの数値は、クリニックの状態を映し出す"検査データ"のようなものである。これらが可視化されていないと、問題が顕在化した時に初めて気づくことになり、手の打ちようが遅れる。
実際、定期的にデータ管理を行っていなかったクリニックE院では、自由診療の導入後に期待通りの収益が得られない理由が把握できなかった。詳細に分析すると、自由診療の説明フローが院内で統一されておらず、担当者によって提案率に大きな差が生じていたことが判明した。データは、単なる数字ではなく、クリニックの運営そのものを可視化する診断ツールである。
6. 院長の疲弊が経営悪化の"最終サイン"となる
クリニックの経営は、最終的には院長の体力と意思決定能力に依存している。経営状態が悪化すると、その重圧は直接的に院長の業務負担に跳ね返る。診療時間の長期化、事務作業の増加、スタッフとのコミュニケーション不足などが重なり、院長自身の疲弊が一段と進む。
ある整形外科クリニックF院では、院長が疲れによって判断力を失い、診療方針が日によって変わるようになった。それによりスタッフの混乱が生じ、組織内の不満が増加し、結果として離職が相次いだ。経営悪化は院長の負担を増大させ、さらに経営が悪化するという悪循環に陥るリスクを孕んでいる。
7. 持続可能なクリニック経営に向けた処方箋
では、上記のリスクを回避し、3年後の安定した経営を実現するためには何が必要か。まず第一に、経営状況の数値化と可視化が欠かせない。主要指標を毎月確認し、異常値が出た場合に即時に分析・対策を行う仕組みを構築するべきである。
第二に、属人化の排除が重要である。レセプトや受付などの重要業務は、複数人で担当できる体制を整え、マニュアル化を進めることで、突然の離職や休職に備えるべきである。
第三に、デジタル化の積極的な導入が求められる。オンライン予約、Web問診、キャッシュレス決済、LINE運用は、患者満足度向上だけでなく、スタッフの負担軽減にもつながる。これらは単なる便利ツールではなく、経営の効率性を高める投資であると認識すべきである。
第四に、院長とスタッフのコミュニケーションを強化することが重要である。定期的なミーティングや1on1を通じてスタッフの意見を吸い上げることで、離職リスクを軽減し、組織の心理的安全性を高めることができる。
最後に、院長自身の働き方の見直しが必要である。診療負担の軽減や外部委託の活用により、院長の時間を経営判断やスタッフマネジメントに割くことで、クリニック全体の品質を向上させることができる。
8. 結論――「3年後の姿」を見据えた判断を今すぐに
クリニックの経営は、日々の診療に追われる中で変化に気づきにくい。しかし、経営状態は常に動き続けており、「今は問題ない」という感覚はしばしば錯覚である。3年後の未来は、今日の小さな意思決定の積み重ねでしか変えることができない。
もし現時点で「このままでいいのだろうか」というわずかな不安があるなら、それは変革のサインである。クリニック経営は、悪化してから対処するのでは遅すぎる。静かに訪れる変化を正確に捉え、早期に手を打つことこそ、3年後の安定した経営を確かなものにする最も有効な道である。
