2026.02.24
クリニック奮闘記
Vol.1102 医療機関M&Aにおけるレセプトデューデリジェンスの必要性 ―保険請求精度の評価と不正・過剰請求リスクの定量的検討―
要旨
医療機関のM&Aにおいては、財務デューデリジェンスを中心とした企業価値評価が一般的に行われている。しかし、医業収入の大半が診療報酬請求に依拠しているという制度的特性を踏まえるならば、保険請求の精度を検証せずして将来キャッシュフローの妥当性を評価することは困難である。本稿では、レセプト分析を通じて保険請求精度を評価する意義を明らかにするとともに、不正請求および過剰請求がM&A後の経営に与える影響について、定量的観点から検討する。
1.はじめに
医療機関の収益構造は、診療行為を実施し、その内容を診療報酬明細書(レセプト)として請求することで確定するという、制度依存型の構造を有している。このため、医業収入は単なる売上高ではなく、算定要件の理解、カルテ記載の適切性、施設基準の運用体制など、多層的な要素の上に成立している。
それにもかかわらず、医療機関M&Aの実務においては、財務諸表上の医業収入を前提に企業価値が算定されるケースが少なくない。この場合、保険請求の精度や適法性が十分に検証されないまま評価が行われることになり、将来的な収益変動リスクを内包する可能性がある。
本稿では、レセプトデューデリジェンスを通じた保険請求精度の評価が、なぜ医療機関M&Aにおいて不可欠であるのかを論じる。
2.保険請求精度とキャッシュフローの相関
医業収入は、請求点数に基づき支払基金や国保連合会による審査を経て入金される。したがって、請求精度が低い場合、返戻や減点が発生し、帳簿上の売上と実際の入金額との間に差異が生じる。
仮に年間医業収入が2億円の医療機関において、減点率が3%から6%へ上昇した場合、単純計算で年間600万円の収益差が生じる。この差額は営業利益を直接圧迫し、企業価値評価におけるEBITDA倍率算定にも影響を及ぼす。
さらに、返戻件数が多い医療機関では、再請求対応や事務コストの増加といった間接的負担も無視できない。これらの要素は財務諸表には明確に表れにくく、レセプト単位での精査を通じて初めて把握可能となる。
3.不正請求と過剰請求の概念整理
保険請求リスクを検討するにあたり、不正請求と過剰請求を峻別する必要がある。
不正請求とは、算定要件を満たさないにもかかわらず故意に請求を行う行為、あるいは虚偽記載を伴う請求を指す。これは法的責任を伴い、返還請求や行政処分の対象となり得る重大なリスクである。
一方、過剰請求は、算定要件の解釈誤りや制度理解の不足、あるいはカルテ記載の不備などにより、結果的に過大な請求となるケースを含む。必ずしも悪意を伴うものではないが、審査強化や個別指導を契機に是正が求められた場合、収益構造が変動する可能性がある。
M&Aの観点からは、いずれも将来キャッシュフローの不確実性を高める要因であり、事前に把握すべき重要な評価対象となる。
4.レセプト分析によるリスクの定量的把握
レセプトデューデリジェンスでは、単に高点数項目の有無を確認するだけでは不十分である。重要なのは、診療構造全体の傾向分析である。
例えば、同規模・同診療科の医療機関と比較して、特定管理料や在宅関連点数の算定割合が著しく高い場合、その妥当性を検証する必要がある。また、月次総点数の推移を分析し、特定時期以降に急激な上昇が見られる場合には、算定方針の変更や施設基準取得の影響を精査することが求められる。
さらに、減点理由の内訳を分析することで、単純な事務ミスなのか、算定要件に対する構造的誤認が存在するのかを識別できる。後者であれば、収益正常化後に一定割合の売上減少が見込まれるため、企業価値評価の前提修正が必要となる。
このように、レセプト分析は、保険請求精度を定量的に把握し、将来リスクを数値化するための有効な手段である。
5.行政リスクとレピュテーションリスク
保険請求の不備は、単なる減点にとどまらず、審査機関からの照会増加や個別指導対象化へと発展する場合がある。特に、高点数項目への依存度が高い医療機関では、審査強化の影響を受けやすい傾向がある。
M&A後に個別指導の対象となった場合、経営陣は多大な時間的・心理的負担を強いられるだけでなく、地域における信用にも影響を及ぼす可能性がある。これらのレピュテーションリスクは財務モデルに直接反映されにくいが、実務上は極めて重要な評価要素である。
6.医療機関M&Aにおける実務的示唆
以上の検討から、医療機関M&Aにおいては、財務デューデリジェンスに加えてレセプトデューデリジェンスを実施することが、合理的なリスク管理手法であると結論づけられる。
具体的には、過去2~3年分のレセプトデータを対象に、減点率、返戻率、算定構成比、月次点数推移などを多角的に分析することが望ましい。その結果を基に、将来キャッシュフローの保守的シナリオを構築することで、過大評価リスクを抑制できる。
医療機関の企業価値は、制度に適合した請求体制の持続可能性に依存している。したがって、レセプト精度の検証は単なる事務的確認作業ではなく、経営の本質的リスクを把握するための戦略的プロセスであると位置づけるべきである。
7.結論
医療機関M&Aにおいて、保険請求精度の評価を欠いた企業価値算定は、将来収益の不確実性を過小評価する可能性が高い。不正請求および過剰請求のリスクは、減点や行政指導という形で顕在化し、買収後のキャッシュフローおよびのれん回収計画に重大な影響を及ぼす。
したがって、レセプトデューデリジェンスは、医療機関M&Aにおける不可欠な検証工程として制度化されるべきである。財務数値の背後にある請求構造を精査することこそが、持続可能な医療機関承継を実現するための基盤となる。
