2026.06.29
クリニック奮闘記
Vol.1191 三十年ぶりの「プラス改定」をどう読むか――循環器内科クリニックに見る物価対応料と賃上げ二層構造の経営判断
2026年6月1日、診療報酬が改定された。本体部分の改定率はプラス三・〇九パーセントであり、本体部分が三パーセントを超えたのは一九九六年度以来、実に三十年ぶりの水準である。一見すると、長らく公定価格の据え置きに苦しんできた医療機関にとって朗報のように映る。しかし、この数字の内訳を精査すると、開業医が経営判断を誤りやすい構造がそこに潜んでいることが見えてくる。本稿では、ある循環器内科クリニックの事例を通じて、この改定をどのように読み解くべきかを論じたい。
まず確認しておきたいのは、本体プラス3.09%のうち、その過半が医療従事者の賃上げ対応(1.70%)と物価高対応(0.76%前後)に充てられているという事実である。すなわち、改定率の数字そのものは大きいものの、その大部分は人件費と物件費の上昇を補填するために設計されており、医療機関の利益を直接押し上げる性質のものではない。改定率を見て「経営が楽になる」と早合点することは、この改定の本質を見誤ることにつながる。
この改定がなぜこれほど大きな改定率となったのか、その背景を理解しておくことは経営判断の前提として有益である。公定価格で運営される医療分野は、賃金や物価の上昇を一般企業のように自由に価格へ転嫁することができない。物価と賃金が三十年ぶりの水準で上昇する局面において、医療機関の経営は急速に圧迫され、報告された病院の約半数が赤字決算に陥るという事態に至った。診療所の経営は病院ほど深刻ではないとされるものの、その状況は確実に悪化しつつある。今回の三十年ぶりのプラス改定は、こうした医療機関の経営危機に対する緊急的な配慮として実現したものであり、決して医療界の収益拡大を意図したものではない。この出発点を取り違えると、改定の数字に浮かれて将来に禍根を残す経営判断を下しかねない。
ここで一つの実例を挙げたい。都市近郊で開業して八年目を迎える、ある循環器内科クリニックの院長は、改定の報を受けて当初は安堵していた。心電図やホルター心電図、心エコーといった検査機器の保守費用が年々上昇し、医療材料の仕入れ価格も円安の影響で重くのしかかっていたからである。このクリニックでは高血圧症や心不全を主病とする高齢患者が外来の中心を占めており、定期通院による安定した患者基盤を有していたが、それでも光熱水費や委託費の高騰は看過できない水準に達していた。院長は「これでようやく収支が改善する」と期待を寄せた。
しかし、実際に改定後の点数を一つひとつ確認していくと、その期待は精緻な現実認識へと修正されることになった。今回の改定では、物価上昇への対応として「物価対応料」という新たな評価が設けられ、外来・在宅物価対応料は初診時に二点が算定できる設計となっている。また、外来・在宅ベースアップ評価料(I)は初診時の点数が引き上げられた。これらは確かに増収要因ではある。だが重要なのは、これらの評価が単年度の一過性の措置ではなく、2026年度と2027年度の2か年にわたる物価上昇を見越して段階的に引き上げられる設計になっている点である。物価対応料は2027年度には倍の点数とすることが方針として示されており、ベースアップ評価料についても継続的に賃上げを実施する医療機関をより手厚く評価する構造へと転換した。
この「二層構造」と「段階設計」こそが、循環器内科の院長が直面した経営判断の核心であった。物価対応料やベースアップ評価料は、いわば物価と賃金の上昇に追随するための調整弁であり、医療機関の恒久的な原資として固定費に安易に織り込むべき性質のものではない。仮にこの院長が、改定で増えた点数分を見越して常勤スタッフの基本給を大幅に引き上げ、それを固定費として恒久化したとすれば、将来の改定でこれらの評価が縮小・廃止された際に、賃金を下げることのできない硬直的なコスト構造だけが残ることになる。賃上げの原資が制度上の調整弁である以上、その制度が変われば原資も変わりうるという緊張関係を、経営者は常に意識しなければならない。
ここで人的資源管理の視点が交差してくる。循環器内科は、心電図検査や心エコーといった検査の比重が高く、検査を担う臨床検査技師や看護師、そして煩雑な算定を正確に処理する医療事務スタッフの技能に経営が大きく依存する診療科である。今回のベースアップ評価料は、その対象が「当該医療機関に勤務する職員」へと拡大された。これは、賃上げの恩恵を看護師や検査技師、医療事務を含む医療従事者全体に行き渡らせる趣旨である。経営者としての院長が考えるべきは、この制度を単なる届出作業として処理するのではなく、自院の人材定着戦略の中にどう位置づけるかという問いである。医療業界の賃上げ率は他産業に比して低い水準にとどまってきた経緯があり、人材の他業種への流出は構造的なリスクとなっている。賃上げの原資が制度として用意された今こそ、それを自院の人材確保にどう結びつけるかが問われている。
この点をめぐっては、制度が今後どのように推移するかという見通しも経営判断に影響する。物価と人件費の高騰が続く中で、2026年度の通常改定に続いて2027年度に期中の改定を行うべきだという議論が、病院団体の側からも提起されている。すなわち、現行の段階設計は、物価と賃金の上昇が今後も継続するという前提のもとで組まれた暫定的な枠組みであり、その前提が変われば設計も変わりうる流動的なものなのである。経営者がこの不確実性を踏まえれば、改定で得た原資をどの程度まで恒久的なコストに変換するかについて、慎重な姿勢を取らざるをえない。物価上昇を構造的な課題として捉えつつも、それへの対応として用意された報酬を固定費に織り込むのではなく、調整可能な変動費として扱う方が、経営の安全性は高まる。
財務の視点から付言すれば、この院長が最終的に採用した判断は示唆に富む。彼は、ベースアップ評価料による増収分を、固定的な基本給の引き上げではなく、評価制度と連動した賞与原資や、技能習得に応じた手当として配分する設計を選んだ。これにより、制度が変動した際の下方硬直性を回避しつつ、スタッフの処遇改善という目的を達成しようとしたのである。経営とは、制度の文言を読むことではなく、制度の背後にある設計思想と、それが自院の固定費構造に及ぼす長期的影響までを読み切ることにほかならない。
加えて、マーケティングの視点からもこの改定は示唆を与える。循環器内科は、高血圧症や心不全といった慢性疾患を主病とする患者を継続的に診る診療科であり、患者との長期的な関係性が経営基盤の核を成す。今回の改定では、心不全の再入院を予防するための継続的な管理を評価する枠組みなど、慢性疾患の重症化予防と継続管理を後押しする方向性が随所に見られる。これは、患者を一度きりの来院者としてではなく、長期にわたって伴走する対象として捉え、その継続管理の質を高める医療機関が報われる構造への移行を示している。循環器内科クリニックの院長にとって、この方向性は、自院の診療スタイルそのものを地域における信頼として可視化し、紹介や口コミによる安定した患者基盤の形成へとつなげる契機となりうる。改定の数字を超えて、その背後にある政策の意図を自院のブランディングへと翻訳する視点が、ここでは求められる。
レセプト請求の実務に目を転じれば、こうした新設評価の算定漏れは、そのまま機会損失となる。物価対応料やベースアップ評価料は、届出と算定の要件を正確に理解し、日々の請求事務に確実に落とし込んでこそ収益に結びつく。点数表の改定は二年に一度であっても、その内容を診療と請求の現場に正しく反映させ続ける作業は、決して軽いものではない。とりわけ今回の改定のように、ベースアップ評価料の届出様式が見直され、対象職種が拡大されるといった変更があった場合、その内容を正確に把握して届出を行い、算定を継続できるかどうかが収益を左右する。届出を怠れば、本来得られるはずの評価を取りこぼすことになる。改定の恩恵を実際の収益として手にできるかどうかは、診療の質ではなく、請求事務の正確さにかかっている。この事実を、多忙な診療の傍らで経営の舵を取る院長は、しばしば見落としがちである。三十年ぶりのプラス改定という見出しの華やかさの陰で、その実質をいかに自院の経営に取り込むか――循環器内科のこの院長の試行錯誤は、すべての開業医にとっての他山の石となるであろう。
