Clinic Diary
クリニック奮闘記
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クリニック奮闘記
2026年10月1日、改正労働施策総合推進法が施行され、カスタマーハラスメント(カスハラ)対策が事業主の法的義務となる。労働者を1人でも雇用するすべての事業主が対象であり、中小企業や個人事業への猶予措置は設けられていない。これはクリニックも当然に含まれる。本稿では、この義務化を人的資源管理の観点から捉え、「患者第一」という医療の理念と、職員を守る経営者の責務をどう両立させるかを論じたい。
まず制度の骨格を押さえておく。改正法では、カスハラを「顧客等の言動であって、その雇用する労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたものにより、労働者の就業環境が害されるもの」と定義している。医療の文脈では、患者やその家族による言動がこれに相当し、しばしば「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と呼ばれる。厚生労働省の指針は、方針の明確化、相談体制の整備、事後の迅速な対応、被害者への配慮と再発防止、といった措置を事業主に求めている。相談したことを理由とする不利益取扱いの禁止も明記された。
ここで医師の経営者が直面する固有の難しさがある。医師法第19条は応召義務を定めており、正当な事由がなければ診療を拒めない。一般の顧客対応であれば「お引き取りください」と言える場面でも、医療機関では患者との信頼関係が損なわれたと言えるかどうか、病状に緊急性がないかどうかを慎重に判断しなければならない。つまり、カスハラ対策の一般論をそのまま持ち込むことはできず、医療特有の制約を踏まえた線引きが必要になる。この判断の難しさこそが、現場の対応を場当たり的にし、職員を疲弊させてきた要因である。
なぜ経営者がこの問題に本腰を入れるべきなのか。理由は倫理と経営の両面にある。厚生労働省の調査でも、医療・福祉分野はカスハラを経験した労働者の割合が全業種の中で高い水準にあることが示されている。理不尽な暴言や執拗なクレームにさらされた職員は、モチベーションを失い、やがて離職に至る。ここで冷静に計算すべきは、離職の経営的コストである。1人のスタッフが辞めれば、採用・教育に相当の時間と費用がかかる。極端に言えば、患者1人あたりの売上よりも、スタッフ1人の離職のほうがクリニック全体に与える打撃は大きい。「患者第一」を掲げるあまり職員を守らず、その職員が去っていくのでは、結果として医療の質も経営基盤も損なわれる。
さらに看過できないのが法的リスクである。使用者には労働契約法第5条に基づく安全配慮義務があり、患者からのハラスメントについても「合理的な対策を取らなかった」と評価されれば責任を問われうる。職員がメンタルヘルスを理由に休職・退職し、対策の不備を理由に損害賠償を求める事案は増加傾向にある。カスハラを放置することは、職員を失うだけでなく、経営者自身が法的責任を負うリスクを抱えることを意味する。2026年10月の施行を、単なる法令遵守の作業ではなく、経営リスク管理の一環として位置づける必要がある。
具体的な整備の方向を、ある耳鼻科クリニックの例で考えてみたい。このクリニックでは、施行に先立って三つの取り組みを行った。第一に、「正当なクレーム」と「許容できないハラスメント」を区別する基準を院内で共有した。たとえば「待ち時間への不満を伝える」ことは正当な要望だが、「順番の繰り上げを大声で要求し続ける」「特定のスタッフを名指しで罵倒する」ことはハラスメントである、という線引きを言語化した。第二に、カスハラには必ず複数名で対応し、職員を1人にしないという運用ルールを定めた。第三に、院長自身が相談を受け付ける窓口となり、「職員を守る」という方針を明確に打ち出した。院長が「理不尽な対応を受けているスタッフがいれば、そのスタッフを最優先に考える」と態度で示したことが、職員の安心感につながった。
小児科のように保護者対応の比重が大きい診療科では、感情的なやり取りが生じやすく、線引きの共有が特に重要になる。整形外科や皮膚科(形成外科を含む)のように治療結果への期待と現実のギャップが不満を生みやすい分野でも、あらかじめ説明を尽くしたうえで、それでも不相当な言動が続く場合には組織として対応する、という姿勢が求められる。いずれの診療科でも共通するのは、対応を個々の職員の我慢やスキルに委ねず、組織の仕組みとして標準化することである。
一方で、バランス感覚も必要である。強い口調のすべてをハラスメントと決めつければ、患者が本当に伝えたいことを見失い、かえって信頼関係を損なう。多くの場合、待ち時間や説明への不満は、誠意をもって向き合えば理解が得られる。カスハラ対策とは、患者を敵視することではなく、正当な訴えには真摯に応え、不相当な言動には毅然と対応する、その線引きを組織として持つことである。患者サービスの質を落とさずに職員の尊厳を守る――この両立こそが、義務化に向けて経営者が設計すべき均衡点である。
カスハラ対策の義務化は、「お客様は神様」という過剰なホスピタリティ文化から脱却し、働く人の尊厳を守る転換点でもある。医師である経営者にとって、それは応召義務という医療固有の制約と向き合いながら、職員を守る仕組みを整える機会である。方針を明確にし、相談体制を整え、対応を標準化する。この地道な準備が、職員の定着を通じて、結果的に患者への医療の質を支える。義務化の施行日は、そのための一つの期限に過ぎない。