Clinic Diary
クリニック奮闘記
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クリニック奮闘記
2026年7月、中央最低賃金審議会の目安に関する小委員会が大詰めを迎えている。7月23日に開かれた第4回小委員会でも労使の隔たりは埋まらず、目安額の決定は持ち越され、7月27日に改めて会合が開かれる運びとなった。労働者側委員は、現行の全国加重平均1,121円を75円引き上げるよう求めていると報じられている。あわせて、7月21日に閣議決定された「日本成長戦略」および骨太方針2026において、全国平均1,500円という政府目標の達成時期が「遅くとも2030年代前半のできる限り早期に」と記載されたことも、審議の前提として審議会に提示された。従来強調されていた「2020年代中」という時期設定からは事実上の後退であるが、裏を返せば、今後も毎年数十円規模の引き上げが続くことが政策として確定したとも読める。
この動向を、クリニックの院長はどのような視点で受け止めるべきか。飲食業や小売業であれば、人件費の上昇分をメニュー価格や商品価格に転嫁するという選択肢が、程度の差こそあれ残されている。しかし保険診療を主たる収益源とする医療機関は、価格すなわち診療報酬点数を自ら決定できない。売価が公定価格として固定されたまま、原価の中核である人件費だけが外生的に上昇していく構造にある。これは経営学でいうところの「コストプッシュに対する価格転嫁経路の欠如」であり、一般産業の中小企業とは質的に異なる財務リスクである。最低賃金の議論を単なる時事ニュースとしてではなく、自院の損益構造に対する外部ショックとして定量的に捉える必要がある。
令和8年度診療報酬改定は人件費上昇を吸収できるか
令和8年度診療報酬改定では、診療報酬本体の改定率が3.09%のプラスとなった。その内訳は、賃上げ対応分が1.70%、物価高騰への対応分が0.76%、食費・光熱水費への対応分が0.09%、そして2024年度以降の経営環境悪化を踏まえた緊急対応分が0.44%である。令和6年度改定の0.88%、令和4年度改定の0.43%と比較すれば、確かに大幅なプラス改定であった。
具体的な評価としては、外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅰ)が初診時6点から17点へ、訪問診療時は28点から79点へと大きく引き上げられた。さらに、令和6年度から令和7年度にかけて賃上げを実施し、令和8年度以降も継続する医療機関については、初診時23点、再診時等6点という上乗せ評価が用意されている。対象職種も「主として医療に従事する職員」から当該医療機関に勤務する全職員へと拡大され、医療事務職員も明確に含まれることとなった。加えて、物価高への対応として外来・在宅物価対応料が新設され、初診時2点、再診時等2点、訪問診療時3点が算定できる。いずれも令和9年度には点数を2倍とする方針が示されている。
一見すると手厚い財源に映るが、ここには重要な留保がある。ベースアップ評価料によって得られた収入は、原則としてその全額を対象職員の基本給等の引き上げと、それに伴う法定福利費の増加分に充当しなければならない。すなわち、この財源は利益として院長の手元に残る性質のものではなく、賃金へ紐付けられた通過勘定である。実際、令和8年5月8日付の疑義解釈資料では、ベースアップ目標を達成できない場合であっても算定自体は可能とされる一方、その場合は得られる収入のすべてを賃金改善に用いなければならないことが改めて示されている。純粋な意味で自由度のある増収は、物価対応料および緊急対応分に相当するごく限られた部分にとどまる。
具体例による試算 ―大阪府内の内科クリニック―
大阪府内で内科と循環器内科を標榜する無床クリニックを例に考えたい。1日の外来患者数は60人、うち初診が6人、再診が54人、月間稼働日数は22日とする。職員構成は常勤看護師2名、パート看護師2名、常勤医療事務2名、パート医療事務2名の計8名である。
外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅰ)を通常点数で算定した場合、初診分が132回に17点を乗じて2,244点、再診分が1,188回に4点を乗じて4,752点、合計6,996点、金額にして月額約7万円、年間では約84万円となる。継続的な賃上げの取組に係る施設基準を満たし、初診23点、再診6点で算定できれば、月額約10万2千円、年間約122万円まで伸びる。物価対応料は初診・再診それぞれ2点であるから、月額約2万6千円、年間約32万円である。
一方の費用側を見る。最低賃金が仮に75円上昇し、パート4名がそれぞれ月80時間勤務であるとすれば、直接の増加は月額2万4千円、年間で約29万円にすぎない。問題はここからである。パートの時給だけを引き上げれば、勤続年数の長い常勤職員との賃金差が圧縮され、社内の賃金カーブが崩れる。この逆転を回避するために常勤6名についても基本給を3.2%引き上げるとすれば、平均基本給28万円として月額約5万4千円、年間約65万円、これに法定福利費の増加分を概算16.5%として加えれば約75万円となる。パート分と合わせた年間の人件費増は約104万円である。
つまり、継続的な賃上げの取組に係る施設基準を届け出て初めて、ベースアップ評価料の収入が人件費の増加とほぼ均衡する。届出を行わず通常点数にとどまれば、年間で20万円程度の持ち出しが生じる計算になる。この差は届出という事務手続の有無のみによって生じるものであり、経営判断の巧拙以前の問題である。令和8年6月診療分の届出期限は5月末をもって過ぎているが、翌月以降の届出も可能であるから、未届の医療機関は速やかに要件を確認すべきである。
診療科によって異なる感応度
人件費上昇に対する感応度は診療科によって大きく異なる。整形外科でリハビリテーション部門を持つ場合、理学療法士を4名以上抱えることも珍しくなく、医業収入に占める人件費の比重は内科より高くなる。しかも運動器リハビリテーション料は単位数に上限があり、人員を増やしても収入が比例的に伸びるとは限らない。人件費が固定費化しやすい構造であり、最低賃金の上昇よりも、有資格者の獲得競争による相場上昇のほうが深刻な影響をもたらす。
小児科は季節変動の振れ幅が最大の論点となる。冬季の感染症流行期には看護師や事務職員のパート増員で対応し、閑散期には人員を絞るという運用が一般的であるが、時給水準が上がるほど繁忙期の変動費が膨らむ。加えて、繁忙期だけ都合よく人材を確保することは年々難しくなっている。耳鼻咽喉科で日帰り手術を実施している施設では、手術日に必要な看護師数を確保するために平時から余裕を持った雇用を行わざるを得ず、稼働率と人員配置の整合が課題となる。皮膚科や形成外科では、処置介助や創傷管理にあたる看護師の熟練度が診療回転率を左右するため、単純な人数の削減が収入減に直結しやすい。
一般に無床診療所では医業収入の40%前後が人件費に充てられているとされる。この比率が5ポイント上昇するということは、医業収入1億円の診療所において年間500万円の利益が消えることを意味する。院長個人の可処分所得の問題にとどまらず、医療機器の更新原資や借入返済能力に直結する。
院長が8月から9月に着手すべきこと
目安が示された後、各都道府県の地方最低賃金審議会が8月に地域別の金額を答申し、多くの地域では10月前後に発効する。すなわち、対応に使える時間は実質的に2か月程度である。
第1に着手すべきは影響人数の洗い出しである。改定後の最低賃金を下回る職員が何名いるかだけでなく、賃金カーブの逆転が生じる層まで含めて、賃金台帳を時給換算で総点検する必要がある。月給者についても、所定労働時間で除した時間単価が最低賃金を下回っていないかを確認しなければならない。精皆勤手当や通勤手当は最低賃金の算入対象外である点も、見落とされやすい論点である。
第2に、雇用契約書と就業規則の整合である。2026年10月には短時間労働者に係る社会保険の賃金要件、いわゆる106万円の壁が撤廃される。企業規模要件が当面残るため多くのクリニックは直ちに対象とならないが、2027年10月以降は段階的に規模要件が縮小され、最終的には全事業所に及ぶ方針が示されている。就業調整を前提とした働き方が制度的に成り立たなくなる方向にあることを踏まえ、パート職員との労働時間の設計を中長期で見直す時期に来ている。
第3に、労働生産性の指標化である。人件費の絶対額を抑えることが困難である以上、職員1人あたりの医業収入、あるいは1人あたりの月間レセプト枚数といった指標を継続的に測定し、改善の余地を可視化するほかない。月末月初に負荷が集中するレセプト点検・請求業務のように、業務量の変動が大きい領域を常勤雇用で吸収しようとすれば、閑散期に余剰人員を抱えることになる。固定費として保有すべき機能と、変動費化を検討すべき機能を切り分ける発想が求められる。
最低賃金の引き上げは、それ自体が悪いことではない。医療事務という職種の待遇と社会的地位を引き上げる方向に働く以上、業界全体としては歓迎すべき変化である。問題は、その原資を公定価格の中でいかに設計するかという1点に尽きる。数字を持たない議論は感情論に流れる。まずは自院の賃金台帳と損益計算書を並べ、10月以降の姿を試算することから始めていただきたい。