Clinic Diary
クリニック奮闘記
Clinic Diary
クリニック奮闘記
前回までに、クリニックの評価が承継後の利益の見込みによって決まること、そして遡及指定の要件として、原則として開設者以外の職員が引き続き雇用されることが求められていることを述べた。職員の引継ぎは、承継の価値を支える要素であると同時に、手続き上の要件でもある。しかし実際の承継の現場では、職員への説明が後回しにされ、承継の前後に中心的な職員が退職してしまう例が少なくない。本稿では、承継に伴う雇用の引継ぎを、労務管理の観点から検討する。
職員の雇用がどう引き継がれるかは、承継の形態によって異なる。医療法人の理事長が交代する場合、職員の雇用主は法人のままであるため、雇用契約はそのまま継続する。一方、個人の診療所を別の医師が承継する場合や、個人の診療所を法人化する場合は、雇用主そのものが変わる。この場合、雇用契約は自動的には引き継がれず、旧開設者のもとでいったん退職し新たな開設者が採用するか、職員本人の同意を得て契約上の地位を移すことになる。
雇用主が変わる承継では、職員にとって重要な労働条件が途切れる可能性がある。勤続年数が通算されるのか、年次有給休暇の残日数は引き継がれるのか、退職金はいつ、どの基準で精算されるのか。これらを曖昧にしたまま承継を進めると、職員は「辞めさせられるのではないか」「条件が下がるのではないか」という不安を抱き、承継を待たずに転職を考え始める。
前回述べたとおり、買い手のデューデリジェンスでは、未払いの残業代、未消化の有給休暇、退職金の支払い義務が点検される。賃金請求権の消滅時効は当分の間3年とされており、始業前の準備や終業後の片付けを労働時間として扱っていなかった診療所では、承継を機に過去の未払いが表面化することがある。有給休暇の時効は2年である。承継の交渉が始まってから慌てて是正するのではなく、承継を意識した時点で、労働時間の記録、就業規則、退職金規程を点検しておくべきである。
雇用主が変わる場合には、就業規則の届出や時間外・休日労働に関する協定、いわゆる36協定の締結と届出も、新たな事業主として行う必要がある。また、個人から法人に変わる場合、社会保険が強制適用となるため、それまで未加入だった職員は手取り額が減ることになる。保険料の負担が増える一方で、傷病手当金や出産手当金、将来の厚生年金といった給付が得られることを、数字とともに説明する必要がある。この論点はVol.1237でも扱った。
承継において職員の離職を招く最大の要因は、条件そのものよりも、説明の順番と時期である。職員が承継を噂や取引先からの情報で知った場合、院長への信頼は大きく損なわれる。一方で、交渉が固まらない段階で伝えれば、不安だけが長く続くことになる。現実的には、承継の基本合意が成立した段階で、まず中心的な職員に院長自身が説明し、その後速やかに全職員に伝えるのが望ましい。患者への告知より前に職員へ説明することは、最低限の原則である。
説明の場では、承継の理由、承継の時期、新しい院長の人柄と診療方針、そして職員の処遇がどうなるかを、できるだけ具体的に伝える。処遇については口頭の説明だけでなく、勤続年数の通算、有給休暇の扱い、給与水準を書面で示すことが、不安を和らげる最も確かな方法である。2024年4月からは、労働条件の明示事項に就業場所と業務の変更の範囲が加わっており、新たな雇用主として労働条件通知書を交付する際にはこれを満たす必要がある。新しい院長と職員1人ひとりとの面談の機会を、承継前に設けることも効果が大きい。
秋に承継を検討している診療所では、冬季賞与の扱いも具体的な問題となる。賞与の算定対象期間の途中で雇用主が変わる場合、旧開設者と新開設者のどちらが、どの期間分を、どの基準で支給するのかを決めておかなければ、職員は賞与が支給されないのではないかという不安を抱く。Vol.1243で述べた人事評価についても、承継前の評価の記録を新院長に引き継ぎ、評価の基準を承継の前後で断絶させないことが重要である。賞与の扱いは、譲渡対価の交渉とは切り離し、職員への約束として早めに確定させるべきである。
承継後も旧院長が非常勤の医師として診療を続ける例は多い。患者の引継ぎの面では有効な方法であるが、職員にとっては、誰の指示に従えばよいのかがわからなくなるという問題を生む。診療方針、業務の手順、職員の勤務管理について、承継日以降は新しい院長が決定権をもつことを、旧院長自身の口から職員に明言してもらうことが重要である。旧院長と新院長の方針が異なる場面では、職員の前で意見を対立させず、2人の間で調整した結果を新院長が伝えるという約束事を設けておくとよい。
新しい院長は、承継直後から業務の手順や就業のルールを改めたいと考えがちである。しかし、職員にとって承継直後は、雇用主が変わったことそのものに適応している最中であり、そこに業務の変更が重なれば負担は大きい。承継後の最初の3か月程度は、従来の手順を原則として維持し、職員の話を聴きながら改善点を整理する期間とすることが望ましい。労働条件を職員に不利益に変更する場合には、就業規則の変更手続きと職員の理解が必要となることも忘れてはならない。
整形外科のあるクリニックでは、第三者への承継にあたり、2名の理学療法士の引継ぎが最大の課題となった。運動器リハビリテーション料の施設基準は従事者の人数によって区分が異なり、1名が退職すれば算定できる区分が下がり、収益に直接影響する。承継後の院長は、承継前に2名と個別に面談し、リハビリテーションの方針と処遇を説明したうえで、承継後1年間の給与水準を保証することを書面で約束した。
皮フ科・形成外科のあるクリニックでは、承継に際して当初、職員をいったん退職扱いとし、有給休暇の残日数を引き継がない案が示された。これに対して勤続10年を超える看護師が退職の意向を示したため、承継後の院長は方針を改め、勤続年数の通算と有給休暇の引継ぎを約束した。結果として職員全員が残り、処置や手術の介助の水準も維持された。目先の負担を避けようとした判断が、承継の価値そのものを損なう寸前であった例である。
呼吸器内科のあるクリニックでは、法人化に伴い、それまで社会保険に未加入だった短時間勤務の職員が加入の対象となった。手取りの減少を理由に勤務時間を減らしたいという声が出たが、院長は事務長とともに、保険料の負担額と、傷病手当金や将来の年金の給付見込みを1人ひとりについて試算して示した。説明の後、勤務時間を減らした職員は1名にとどまった。
承継を円滑に進めるうえで、事務長や看護師長など中心となる職員の存在は大きい。こうした職員には、全職員への告知に先立って説明し、承継の工程に協力者として加わってもらうことが望ましい。前回述べた行政手続きの工程表の管理、患者への告知文の作成、窓口での問い合わせ対応の準備などは、診療所の実情を知る職員でなければ担えない。中心となる職員が承継の意義を理解し、新しい院長との橋渡し役を担えば、他の職員の不安も和らぐ。反対に、中心となる職員が承継に不満を抱いたまま退職すれば、その影響は1人分の欠員にとどまらず、職場全体の動揺につながる。承継に伴って責任が増える職員には、その役割に見合った処遇を示すことも忘れてはならない。
承継開業を考えている医師にとって、引き継ぐ職員はその診療所の運営を知り尽くした最も重要な資源である。同時に、職員にとって新しい院長は、自分で選んだわけではない雇用主である。承継前の面談で、職員がこれまでの診療所で何を大切にしてきたかを聴き取ることから始めるべきである。
承継開業を検討している医師にとっても、職員の雇用条件をどこまで引き継ぐかは譲渡対価と同じ重さで検討すべき事項である。条件を引き下げれば短期的な費用は抑えられるが、中心的な職員が去れば、その補充と教育には採用費と時間がかかり、承継で得たはずの価値は失われる。
承継によって変わるのは院長であり、診療所を日々動かしているのは職員である。雇用条件の継続を約束し、説明の順番を守り、新しい院長が職員の声を聴く。この3点を承継の工程に組み込むことが、評価額を守り、遡及指定の要件を満たし、そして患者の信頼を保つための前提となる。最終回となる次回は、承継を患者にどう伝えるかを取り上げる。