2026.06.09
クリニック奮闘記
Vol.1177 物価高・賃上げ時代の整形外科経営 ―リハビリ収益とベースアップ評価料の戦略的活用―
2026年度診療報酬改定では、診療報酬本体の改定率がプラス3.09%と、近年では大幅なプラス改定となった。令和6年度のプラス0.88%、令和4年度のプラス0.43%と比較すれば、その手厚さは際立っている。この背景には、医療従事者の処遇改善に加え、昨今の物価高や医療機関の経営難に対する緊急的な補填という政策的意図がある。本稿では、人件費と固定費の増大が経営を直撃する整形外科クリニックを題材に、改定をどう経営に取り込むべきかを論じたい。
整形外科は、その診療特性上、リハビリテーションスタッフ、看護師、医療事務スタッフを多く擁する。人件費が経営に占める割合が高く、物価高と賃上げの圧力を最も強く受ける診療科の一つである。今回の改定で注目すべきは、賃上げ対応として前回改定で新設された「ベースアップ評価料」がさらに引き上げられ、加えて物価高騰への対応として「物価対応料」が新設された点である。外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅰ)は、初診時で従来の6点から17点へと大幅に引き上げられた。これらはいずれも段階的な引き上げが予定されており、2027年度には2倍の点数になる方針が示されている。ここで、地方都市で開業するある整形外科クリニックの事例を考えたい。膝関節症や腰部脊柱管狭窄症の高齢患者を中心に、運動器リハビリテーションを日々数十単位提供しているこの診療所では、理学療法士5名を雇用している。改定前、院長は人件費の上昇に対して診療報酬がほとんど追いついていない現実に頭を悩ませていた。最低賃金の上昇と人材確保のための処遇改善が避けられない一方で、収益の伸びは限定的だったからである。
今回の改定で同院がまず取り組んだのは、ベースアップ評価料の正確な算定である。この評価料は対象職員の賃金改善に充てることが前提であり、算定にあたっては賃金改善計画書や実績報告書の作成が求められる。一見すると事務負担の増加に見えるが、見方を変えれば、賃上げの原資を診療報酬として確保できる仕組みである。同院ではレセプト点検の過程でこの評価料の算定漏れがないかを毎月確認する体制を整え、結果として職員の処遇改善を制度の裏付けをもって実現することができた。
第二に重要なのが、運動器リハビリテーション料の算定精度である。整形外科の収益の柱であるリハビリは、提供単位数と算定要件の管理が収益を大きく左右する。改定では、日常診療の管理体制の見直しに関する要件化が進められており、リハビリの実施計画書、再評価、医師の指示といった一連の記録の整合性がこれまで以上に問われる。ある整形外科では、リハビリ実施記録と医師の指示記録に時系列の齟齬があり、返戻を受けた経験から、記録のタイミングを業務フローに組み込む改善を行った。これにより返戻率が目に見えて低下したという。
この返戻問題は、整形外科のリハビリ算定において典型的に発生する論点である。リハビリテーション料の算定には、医師による定期的な実施計画書の作成と患者への説明、そして一定期間ごとの効果判定が要件として求められる。日々多数の患者にリハビリを提供する整形外科では、これらの記録が形骸化したり、作成の時期が要件からずれたりすることが起こりやすい。前述のクリニックが業務フローの見直しによって返戻率を改善できたのは、記録の作成を「診療の合間に行う付随的な事務」から「業務工程に明確に組み込まれた必須の手順」へと位置づけ直したからである。算定の正確性は、医師個人の注意力に依存させるのではなく、仕組みによって担保すべきものである。この発想の転換こそが、算定漏れと返戻の双方を減らす要諦となる。
第三の論点は、固定費全体の構造的な見直しである。物価対応料の新設は朗報であるが、これだけで光熱費や医療材料費の高騰を吸収できるわけではない。整形外科では画像診断機器の保守費用、リハビリ機器の更新費用、消耗品費など、固定費の負担が他科より重い傾向にある。収益の改善と並行して、これらの固定費を継続的に点検する経営姿勢が欠かせない。
ここで強調したいのは、診療報酬改定がもたらす増収機会は、それを正確に算定し、要件を満たし続ける体制があってはじめて実現するという点である。ベースアップ評価料も物価対応料も、算定要件を満たさなければ一円も得られない。逆に、要件を満たしながら算定漏れを起こせば、本来得られるはずの収益を取りこぼすことになる。整形外科のように算定項目が多岐にわたる診療科では、この「取りこぼし」が積み重なると年間で看過できない金額に達する。
物価高と賃上げという外部環境の変化は、個々のクリニックの努力では制御し得ない。しかし、その環境変化に対応するために制度が用意した手当てを、漏れなく正確に受け取ることは、経営努力の範疇にある。ここで視野を広げ、整形外科という診療科が置かれている構造的な状況を考えてみたい。整形外科は、超高齢社会において需要が拡大し続ける数少ない診療科の一つである。変形性関節症、骨粗鬆症に伴う脆弱性骨折、ロコモティブシンドロームといった運動器の疾患は、加齢とともに有病率が高まる。したがって患者数の確保という点では、整形外科は比較的恵まれた立場にあるといえる。問題は、その需要を収益へと結びつける構造が、人件費と固定費の重さによって圧迫されている点にある。リハビリテーションという労働集約的なサービスを収益の柱とする以上、人件費の上昇は避けられない宿命であり、だからこそ今回のベースアップ評価料の引き上げと物価対応料の新設は、整形外科にとって特に大きな意味を持つ。
前述の地方都市の整形外科クリニックでは、改定への対応を進める過程で、もう一つの重要な気づきを得た。それは、リハビリの提供単位数が理学療法士の稼働時間に強く依存している以上、スタッフの定着率こそが収益の安定性を左右するという事実である。ベースアップ評価料を活用して処遇を改善したことは、単に制度上の加算を得たというだけでなく、人材の流出を防ぎ、結果としてリハビリの安定的な提供を支える基盤づくりにつながった。整形外科のように専門職の確保が経営の生命線となる診療科では、賃上げ原資を制度的に確保できることの意義は、単純な点数の増加という以上に大きい。人材が定着すれば、患者との関係も継続し、リハビリの質も向上する。処遇改善が医療の質の向上へと循環していく構造が、ここに見て取れる。
整形外科クリニックの院長に求められるのは、診療に専念しつつも、自院の収益構造が改定にどう反応しているかを定量的に把握することである。リハビリ収益の単位数管理、ベースアップ評価料の確実な算定、固定費の継続的な点検。これらを連動させる経営の眼差しこそが、物価高時代を生き抜く整形外科の条件となるであろう。需要が拡大する診療科だからこそ、その需要を取りこぼさず確実に収益へと結実させる体制の差が、これからの整形外科経営の優劣を分けることになる。
