Vol.1207 オンライン資格確認から電子処方箋へ ―― 医療DXがもたらす診療所の情報資産の再評価

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Vol.1207 オンライン資格確認から電子処方箋へ ―― 医療DXがもたらす診療所の情報資産の再評価

2023年4月にオンライン資格確認の導入が原則義務化されて以降、診療所の情報基盤は静かに、しかし決定的に変化した。2026年現在、電子処方箋の普及、電子カルテ情報共有サービスの本格運用、そしてマイナ保険証の利用率上昇により、診療所が保有する情報は院内に閉じたものから、地域医療全体で流通するものへと性質を変えつつある。この変化は、多くの院長にとって「対応すべき制度改正」として認識されているが、経営の観点からはむしろ「情報資産の価値が可視化される過程」として捉えるべきである。

兵庫県内で整形外科を経営するB院長の事例を検討する。開設8年目、常勤医師1名、理学療法士4名、看護師2名、医療事務3名の体制で、1日平均外来患者数は90名、うちリハビリテーション患者が60名を占める。同院は2023年にオンライン資格確認を導入したが、B院長自身の認識は「義務だから入れた」というものであり、導入後2年間、その活用について検討することはなかった。

この事例を検討する前に、オンライン資格確認が診療所にもたらした変化の本質を整理しておきたい。制度の表向きの目的は、保険資格の過誤請求の削減と、患者の医療情報へのアクセス改善である。しかし診療所の実務における最大の変化は、患者の保険資格を来院時点で確実に把握できるようになったことによる、返戻・査定の減少である。従来、月末に転職や退職があった患者の資格喪失を診療所が知る術はなく、請求後に返戻されて初めて判明する事例が一定数存在した。この返戻処理は事務スタッフにとって煩雑であり、患者への連絡も気まずい。オンライン資格確認は、この負荷を構造的に排除した。すなわち、この制度は医療事務の業務量を減らす方向に作用しており、その削減分をどこに再配分するかという判断を、各診療所に委ねているのである。

転機は2025年秋に訪れた。同院で、他院で処方されていた薬剤との相互作用が疑われる事例が発生したのである。80代の女性患者が変形性膝関節症の疼痛管理のためNSAIDsの処方を受けていたが、循環器内科で抗凝固薬を処方されていたことが、患者の申告漏れにより把握されていなかった。幸い重篤な事象には至らなかったが、B院長はこの一件を機に、オンライン資格確認システムを通じた薬剤情報の閲覧機能が導入済みでありながら、日常診療でほとんど活用されていない実態を認識した。

調査したところ、原因は明快であった。薬剤情報の閲覧には患者の同意取得と数回の画面操作が必要であり、多忙な外来診療の中でその工程を挟む習慣が定着していなかったのである。導入時に業者から説明は受けていたが、それは機能の説明であって、診療フローへの組み込みの設計ではなかった。技術の導入と業務への実装は別物であるという、DXにおける普遍的な課題がここに現れていた。

この動線の再設計にあたり、B院長が直面した課題は受付業務の負荷であった。同意取得の工程を挟むことは、受付スタッフにとって作業の追加を意味する。患者1人あたりの受付時間は延び、混雑時には待ち行列が生じる懸念があった。B院長はこの点について、受付スタッフと2回の協議を持った。その結果採用されたのは、初診時および月初の資格確認時に限って丁寧に同意取得を行い、それ以外の来院時は既に得られた同意を前提とするという運用である。また、待合室に薬剤情報の閲覧に関する掲示を設け、患者が受付に到達する前に趣旨を理解している状態を作った。業務の追加を、患者への説明の分散によって吸収したのである。運用設計とは、必要な工程をどこに配置するかの問題であり、単に工程を増やすことではない。

B院長が着手したのは、システムの追加投資ではなく、受付から診察までの動線の再設計である。具体的には、受付時にマイナ保険証を用いた資格確認を行う際、薬剤情報および特定健診情報の提供について同意を取得する運用を標準化し、同意が得られた患者については、看護師が予診の段階で薬剤情報を確認し、他院での処方内容をカルテに転記する工程を設けた。これにより、B院長が診察室に入った時点で、既に患者の薬剤情報が手元に揃っている状態が実現した。

この運用変更がもたらした効果は、安全性の向上に留まらなかった。第一に、患者からの「他の病院でもらっている薬を先生に伝えるのを忘れていた」という不安が解消され、患者満足度が向上した。同院が2026年春に実施した患者アンケートでは、「医師が自分の治療全体を把握してくれていると感じる」という項目のスコアが、前年比で顕著に改善した。第二に、リハビリテーション部門との情報共有が円滑になった。整形外科において、患者の合併症や服薬状況は運動療法の負荷設定に直結する。理学療法士が薬剤情報にアクセスできる体制は、リスク管理の観点からも意義が大きい。

さらに重要なのは、この過程で同院の情報資産の価値が可視化されたことである。B院長は、他院での処方情報を閲覧できるということは、逆にいえば自院の処方情報が他院から閲覧されているということでもあると気づいた。すなわち、自院のカルテ記載や処方内容は、もはや院内で完結する記録ではなく、地域の医療機関に対して自院の診療の質を示す情報でもある。整形外科において漫然としたNSAIDsの長期処方が続いていれば、それは他院の医師の目に触れる。

この認識は、診療の質に対する内発的な規律をもたらした。B院長は2026年から、処方内容の定期的な見直しをリハビリテーションの評価と連動させる運用を導入している。運動療法の効果が現れている患者については、鎮痛薬の減量を積極的に検討する。これは臨床的に望ましいだけでなく、地域における自院の評価にも影響する。

ここで、逆の可能性についても検討しておく必要がある。情報の流通は、診療所にとって必ずしも有利に働くとは限らない。他院の医師が自院の処方内容を閲覧できるということは、診療内容が同業者の評価に晒されることを意味する。整形外科において、リハビリテーションの提供が漫然と継続されている、あるいは画像検査の頻度が過剰であるといった実態があれば、それは可視化される。B院長はこの点について、脅威ではなく規律として受け止めた。しかし、すべての診療所がそう受け止められるとは限らない。医療DXが診療の質を可視化する方向に進むということは、質の低い診療が経営的にも不利になる時代が到来しつつあるということである。これは長期的には医療全体の質を高めるが、個々の診療所にとっては適応を迫る圧力となる。

マーケティングの観点からも検討したい。診療所の集患は、従来、立地、看板、口コミ、そしてウェブサイトによって規定されてきた。しかし医療DXの進展は、新たな経路を生み出しつつある。地域の医療機関間で情報が流通する環境下では、他院からの紹介の判断材料に、診療内容そのものが含まれるようになる。整形外科であれば、内科医が変形性関節症の患者を紹介する際、その診療所がどのような治療を行っているかを、処方情報から間接的に知ることができる。この意味において、診療の質は最も持続的な集患戦略となる。

電子処方箋についても言及しておきたい。2026年現在、その普及は当初の想定より緩慢に進んでいるが、導入した診療所からは、重複投薬や併用禁忌のチェック機能が実務的に有用であるとの評価が聞かれる。B院長の同院も2026年度中の導入を予定しているが、その検討にあたってB院長が重視しているのは、機能そのものではなく、それを日常診療のどの工程に組み込むかという設計である。オンライン資格確認の際の失敗、すなわち導入したが使われないという事態を繰り返さないためである。

財務の視点からは、これらの投資の評価が課題となる。オンライン資格確認や電子処方箋の導入には補助金が設けられているが、それでもなお自己負担は発生し、維持管理費も継続的に生じる。この支出を、単なるコストと見るか、投資と見るかは、それが生み出す価値の測定可能性に依存する。B院長のケースでは、医療事故の回避という定量化困難な便益に加え、患者満足度の向上、リハビリテーション部門のリスク管理精度の改善、そして診療の質に対する組織的な規律という、複数の便益が生じた。これらは損益計算書には現れないが、経営の持続可能性に確実に寄与する。

情報セキュリティについても言及が必要である。地域で情報が流通する環境は、同時に情報漏洩のリスクが院内に閉じなくなることを意味する。2026年現在、医療機関を標的としたランサムウェア被害は継続的に報告されており、診療所も例外ではない。B院長の同院では、オンライン資格確認の導入を機に、ネットワーク構成の見直しとバックアップ体制の再構築を行った。この投資は診療報酬上の評価を一切伴わない純粋なコストであるが、システム停止による診療の中断が生じた場合の損失を考えれば、必要な支出である。医療機関の事業継続計画において、情報システムの停止は災害と同等のリスクとして位置づけられるべきである。院長がこのリスクを認識せず、業者任せにしている診療所は少なくないが、最終的な責任は開設者である院長が負う。

医療DXを制度対応として矮小化すれば、それは費用の増加に終わる。情報資産の再評価の機会として捉えれば、診療の質と経営の質を同時に高める契機となる。両者を分かつのは、システムの性能ではなく、院長がその情報をどう使うかという意思である。

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