Clinic Diary
クリニック奮闘記
Clinic Diary
クリニック奮闘記
2024年4月に医師の時間外労働上限規制が施行されてから2年が経過し、2026年現在、その影響は勤務医の労働環境のみならず、診療所経営にも波及している。大学病院や地域中核病院が宿日直体制を見直した結果、非常勤医師の派遣が縮小し、これまで週1回の外来応援で成り立っていた診療体制の維持が困難になる診療所が現れている。同時に、2025年4月から中小企業にも月60時間超の時間外労働に対する割増賃金率50%が完全適用され、医療事務スタッフの残業構造そのものを見直す必要性が高まった。
大阪府内で内科(消化器内科を標榜)を経営するA院長のケースを取り上げる。開設12年目、常勤医師1名、非常勤医師1名、看護師3名、医療事務4名の体制で、1日平均外来患者数は65名である。同院では長年、月初のレセプト業務が事務スタッフの残業の主因となっていた。毎月1日から10日の請求期間中、事務スタッフ4名が平均して1人あたり月20時間の時間外労働を行っており、繁忙月には25時間を超えることもあった。年間の残業手当は概算で240万円に達していた。
この構造を理解するために、まず時間外労働の上限規制が診療所に及ぼす影響の経路を整理しておきたい。医師の時間外労働上限規制は、直接的には勤務医を対象とするものであり、開設者である院長自身には適用されない。この点を根拠に、規制を他人事として受け止める開業医は少なくない。しかし、規制の影響は少なくとも3つの経路で診療所に及ぶ。第一に、非常勤医師の供給が減少する。大学医局や地域中核病院が所属医師の総労働時間を管理するようになれば、外勤としての診療所勤務は削減の対象となる。第二に、勤務医の労働環境が改善されれば、開業の相対的な魅力が低下し、後継者の確保が困難になる。第三に、そして最も見落とされやすい点として、医療機関全体の労務管理水準が上昇することで、診療所の労務管理の相対的な遅れが人材獲得上の不利となる。すなわち、規制の直接的な名宛人でないことは、影響を受けないことを意味しない。
A院長がこの構造に疑問を持ったのは、2025年4月の割増賃金率改定を機に社会保険労務士から受けた指摘がきっかけであった。同院の場合、月60時間を超える個人は存在しなかったため直接的な影響は軽微であったが、その際に労務コストの内訳を精査したところ、残業手当の総額が事務スタッフ1名分の年間人件費に相当することが判明した。すなわち、同院は年間240万円を支払いながら、その対価として得ているのは「月初10日間だけ集中的に発生する業務の処理能力」であり、残る20日間についてはその支払いが何ら生産性を生んでいないという事実である。
ここで注目すべきは、残業手当が変動費でありながら、実質的には固定費に近い性質を帯びていた点である。レセプト請求業務は毎月必ず発生し、その業務量は患者数に概ね比例するため、A院長の意思決定によって削減できる余地が乏しかった。経営管理の観点からいえば、これは「管理不能費」に近い性質を持つ。管理不能費が総人件費の一定割合を占める構造は、経営の自由度を著しく損なう。
この可視化の作業自体にも、A院長は当初抵抗を覚えたという。業務時間を15分単位で記録させることは、スタッフに監視されているという印象を与えかねない。実際、導入前の説明会では事務スタッフから戸惑いの声が上がった。A院長がこの局面で採った説明は、記録の目的が個人の評価ではなく業務構造の把握にある点を明示し、記録結果を全員で共有して改善策を一緒に考えるという約束であった。人的資源管理において、測定は常に不信の契機を孕む。測定の目的が管理にあるのか改善にあるのかを、スタッフが誤解なく理解できる形で提示できるか否かが、この種の取り組みの成否を分ける。同院では記録開始から2週間後に全体会議を開き、集計結果を匿名化した形で共有した。その席で、事務スタッフ自身から「疑義照会の待ち時間が長い」という指摘が出たことが、その後の改善の推進力となった。
A院長が採った対応は、レセプト業務の外部化ではなく、まず業務プロセスそのものの可視化であった。事務スタッフに対し、月初10日間の業務内訳を15分単位で記録するよう依頼したところ、興味深い結果が得られた。実際にレセプトチェックと請求データの作成に費やされていた時間は全体の45%に過ぎず、残る55%はカルテの記載内容の確認、医師への疑義照会の待ち時間、そして保険証情報の不備の追跡に費やされていた。すなわち、残業の主因はレセプト業務そのものの分量ではなく、日常診療における情報入力の不備がレセプト時期にまとめて顕在化するという「後送り構造」にあったのである。
この発見は、A院長にとって痛みを伴うものであった。疑義照会の待ち時間の大部分は、A院長自身が診療の合間に対応できず、事務スタッフを待たせていた時間である。また、カルテの傷病名と実施した検査の整合性が取れていない事例が月間で30件前後発生しており、その修正作業が事務スタッフの負荷となっていた。経営者としての院長の責任と、診療者としての医師の行動が乖離していたのである。
A院長は2025年度下期から3つの措置を講じた。第一に、電子カルテの入力テンプレートを診療科の特性に合わせて再構築し、消化器内視鏡検査に関する傷病名と検査項目の対応を入力段階で担保する仕組みを導入した。第二に、疑義照会への回答を診療後の15分間に集約する運用に改め、事務スタッフの待ち時間を構造的に排除した。第三に、月初のレセプト業務の一部、具体的にはチェックと請求までの工程を外部委託し、事務スタッフを日常業務の質的向上に振り向けた。
結果として、2026年6月時点で事務スタッフの月間平均残業時間は8時間まで減少し、年間残業手当は約96万円となった。外部委託費用を控除しても年間で約60万円の削減効果が生じたが、A院長が重視したのはその金額ではない。事務スタッフの離職リスクが低減し、月初に病欠者が出ても請求業務が滞らない体制が構築されたこと、そして何より、事務スタッフが患者からの問い合わせ対応や予約管理といった、患者満足度に直結する業務に時間を割けるようになったことである。
外部委託の範囲設定についても付言しておきたい。A院長は当初、レセプト業務のすべてを委託することを検討したが、最終的にチェックと請求までの工程に限定した。この判断の根拠は、患者からの問い合わせ対応や窓口での保険証確認といった業務が、レセプトの精度と不可分に結びついているという認識である。委託先は院内の患者情報にリアルタイムでアクセスできるわけではなく、窓口で得られる情報を院内で確実に記録する工程は残さざるを得ない。すなわち、外部委託は業務の切り出しであって、責任の移転ではない。この点を曖昧にしたまま委託を進めた診療所では、請求漏れや査定の増加が生じ、かえって院長の負担が増す事例が報告されている。
この事例が示唆するのは、労務コストの削減が単なる支出の圧縮ではなく、経営資源の再配分であるという点である。人的資源管理の観点からいえば、有限な労働時間をどの業務に配分するかは、院長の戦略的意思決定に他ならない。残業手当を支払い続けることは、その意思決定を放棄し、業務の発生順序に人員配置を委ねることを意味する。
財務の視点からも検討を加えたい。診療所の損益分岐点は、固定費の大きさによって規定される。人件費は診療所の費用構造において最大の比重を占め、一般に医業収入の40%から50%を占めるとされる。この比率が上昇すれば、患者数の減少に対する耐性が低下する。2026年現在、診療所を取り巻く外部環境は決して楽観できない。人口減少地域では新規患者の獲得が困難となり、都市部では競合の増加により1施設あたりの患者数が漸減する傾向にある。こうした状況下で、費用構造の柔軟性を確保しておくことは、経営の持続可能性を高める。
なお、A院長の事例において特筆すべきは、外部委託の導入が最初の選択肢ではなかった点である。業務の可視化を経ずに外部化を進めた場合、委託先に渡すのは「不備を含んだままのデータ」であり、結局は疑義照会が往復して工程が増えるに過ぎない。実際、同様の課題を抱えた診療所が委託を試みたものの、院内の情報整備が不十分であったために期待した効果が得られず、1年で内製に戻した事例も存在する。外部化は業務プロセスの整備を前提とする手段であって、整備の代替ではない。
もう一つ、この事例が提起する論点は、院長自身の行動が組織のコストを規定するという事実である。A院長の同院において、事務スタッフの残業の相当部分は、A院長が疑義照会に応じられないことに起因していた。経営者が自らの時間の使い方を変えなければ、いかなる仕組みも機能しない。診療の合間に15分を確保するという判断は、A院長にとって診察枠を1つ減らすことを意味した。短期的には医業収入の減少である。しかし、その15分が事務スタッフ4名の待ち時間を解消し、年間144万円の残業手当を削減したのであれば、経営判断としては明白に正しい。院長が自らの時間の機会費用を正しく評価することは、診療所経営における最も基本的で、最も実践されにくい規律である。
働き方改革関連法への対応を、単なる法令遵守の問題として捉えるか、経営構造を見直す契機として捉えるかによって、その後の帰結は大きく異なる。前者は最小限の対応に留まり、コストは増加する。後者は初期の負荷を伴うが、費用構造の改善と組織の質的向上をもたらす。A院長が後者を選択できた背景には、残業手当という数字の背後にある業務の実態を直視する姿勢があった。
経営管理の要諦は、数字を眺めることではなく、数字を生み出している現場の行動を理解することにある。月次の損益計算書に記載された人件費という一行の背後には、事務スタッフが月初の10日間に何をしていたかという具体的な事実が存在する。その事実に到達しない限り、いかなる経営判断も精度を欠く。医師である院長にとって、それは診療における問診と同じ営みである。検査値の異常という結果だけを見て治療方針を決める医師はいない。経営もまた同様である。