Clinic Diary
クリニック奮闘記
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クリニック奮闘記
令和8年度診療報酬改定は、薬価が4月、本体が6月1日に施行された。本体改定率は3.09%の引き上げであり、薬価等の0.87%引き下げを差し引いてもなお、近年では例のない規模のプラス改定である。本体の引き上げ幅が3%を超えたのは平成8年度以来、およそ30年ぶりにあたる。物価高騰と人件費上昇に直面する医療機関にとって、この改定が経営環境の転換点となることを期待した院長は少なくないはずである。
しかし、8月下旬という現在の時点は、その期待が実際にどこまで現実になったのかを検証できる最初の機会でもある。6月診療分のレセプトは7月10日までに請求され、審査支払機関による審査を経て、8月に入って返戻および査定の結果が医療機関に届き始めている。改定内容の解説を読んで理解した気になっている段階と、自院の請求データが実際にどう扱われたかを確認する段階とでは、経営判断に使える情報の質がまったく異なる。本稿では、改定の実効性を自院のレセプトから検証する方法について、クリニック経営の視点から検討する。
まず前提として確認しておかなければならないのは、3.09%という数字が全国の医療機関に等しく配分される増収率ではないという点である。改定率は医療費全体の伸びをマクロで示した数値にすぎず、その内訳は個別の点数項目の増減として現れる。したがって、自院の診療内容の構成によって、実際の増収率は3.09%を大きく上回ることも、逆に横ばいにとどまることもありうる。
今回の改定では、基本診療料のうち再診料が1点引き上げられて76点となった一方、初診料は291点で据え置かれた。この1点の差が意味するところは診療科によって大きく異なる。再診の比率が高く、慢性疾患の継続管理を主体とする循環器内科や消化器内科では、再診料の引き上げは患者数に比例して積み上がる。他方、初診の比率が相対的に高い皮フ科や、季節性の急性疾患を多く扱う耳鼻科では、同じ改定であっても基本診療料からの恩恵は限定的になる。改定の評価を業界紙の見出しで済ませてしまうと、この違いが見えない。
したがって検証の出発点は、改定率という外部の数字ではなく、自院の外来単価の推移である。5月と6月、7月それぞれについて、医業収入を延べ患者数で除した1人当たり単価を算出し、その変化を確認する。ただしこの比較には季節性という交絡要因がある。小児科では6月から7月にかけて感染症が減少し、耳鼻科では花粉症シーズンの終了によって患者構成が変わる。整形外科では夏季のスポーツ外傷が増える。したがって前月比だけでなく、前年同月比を併用して二重に確認することが望ましい。
今回の改定でクリニックへの影響が大きかった項目の1つが、生活習慣病管理料と特定疾患療養管理料をめぐる整理である。かかりつけ医機能の強化という改定の柱に沿って、慢性疾患の継続的な管理をどの点数で評価するかが見直された。
ある循環器内科クリニックの例で考えてみたい。高血圧症と脂質異常症を中心に、1日当たり60人程度の外来を診ている。改定に際して院長は算定要件を確認し、対象患者について生活習慣病管理料へ移行する方針を決めた。ここまでは正しい判断である。問題はその先にあった。療養計画書の作成と患者同意の取得という要件を、日常の診療動線のなかにどう組み込むかという設計が曖昧なまま運用が始まったのである。
結果として何が起きたか。診察室では医師が説明を行い、患者も納得している。しかし計画書の交付記録と同意の署名が一部の患者について残されていない。カルテには記載があるが、要件を満たす形式にはなっていない。このような不備は、レセプト上は算定できているように見えるため、請求時点では気づかれない。発覚するのは、個別指導の場か、あるいは審査支払機関からの返戻という形である。改定直後は算定要件の解釈が現場で揺れやすく、こうした形式要件の不備が集中的に生じる。
ここで重要なのは、これが医療事務スタッフの能力の問題ではないという点である。要件を満たす運用を設計できるのは、診療の流れを決めている院長だけである。医療事務が後から書類の不足を指摘しても、診察室の運用は変えられない。改定への対応が請求業務の話として事務部門に委ねられている限り、この種のずれは繰り返される。
消化器内科では、内視鏡検査に関連する加算や検査項目の算定要件が検証の対象になる。前処置、鎮静、病理検体の取り扱いなど、1回の検査に複数の算定要素が絡むため、電子カルテやレセプトコンピュータの初期設定が改定内容に正しく追随しているかを確認する必要がある。ベンダーによる改定対応は行われているが、施設ごとの個別設定、とくに独自に登録したセット入力の内容までは自動的に更新されない。改定前に作成したセットをそのまま使い続けた結果、廃止された項目を算定し続けていた、あるいは新設された加算を取り漏らしていたという事例は、改定のたびに一定数生じる。
整形外科においても同様の構造がある。リハビリテーション関連の算定は単位数の管理、実施記録、従事者の要件など、複数の条件が重なる領域である。改定によって要件の一部が変更された場合、日々の運用に落とし込まれるまでに時間差が生じる。7月から8月にかけて届く査定通知は、その時間差がどこにあったかを教えてくれる資料である。
実務上、返戻と査定は明確に区別して扱う必要がある。返戻は請求内容に不備があるとして差し戻されたものであり、修正のうえ再請求すれば支払われる可能性が残る。査定は減点であり、原則としてその分の収入は失われる。
返戻について見落とされがちなのが、資金繰りへの影響である。6月診療分が返戻となり、翌月に再請求して認められた場合、入金は当初の予定より1か月遅れる。1件あたりの金額が小さくとも、件数がまとまれば月次のキャッシュフローに影響する。とくに賞与の支給月や設備投資の支払月と重なった場合、資金繰りの余裕は想定以上に削られる。改定直後は返戻件数が平常時より増える傾向にあるため、この点を織り込んでおく必要がある。
査定については、その理由を分類することに意味がある。算定要件の不備によるものか、医学的必要性の判断によるものか、あるいは単純な入力誤りによるものかで、対応はまったく異なる。要件不備であれば運用の修正で解決するが、医学的必要性を問われた場合には、カルテ記載の充実によって診療の妥当性を示す必要がある。改定初年度は審査側も新しい要件の運用を固めていく過程にあるため、査定の傾向を継続的に観察することが、翌年以降の請求精度に直結する。
以上の検証を、院長が診療の合間に1人で行うことは現実的ではない。かといって、医療事務スタッフに丸投げしても、診察室の運用に踏み込む判断はできない。必要なのは、月次で返戻と査定の内容を集計し、その原因を分類したうえで、診療側と事務側が同じ資料を見て話し合う場である。
多くのクリニックでは、この場が存在しない。返戻が届けば事務が修正して再請求し、査定は仕方のないものとして処理される。個々の対応としては間違っていないが、そこから学習が生まれない。改定という制度変更が起きた年に、この仕組みの有無が収益の差として現れる。
改定率3.09%は、国が医療機関に配分した原資の大きさを示すにすぎない。それが自院の収入として定着するかどうかは、算定要件を満たす運用を設計できたか、請求の誤りを早期に発見できたか、そして発見した誤りを次に活かす仕組みを持っているかにかかっている。30年ぶりの大幅改定は、その差を可視化する年になるだろう。8月に届いた通知の束は、単なる事務処理の対象ではなく、自院の経営体質を映す資料である。