Clinic Diary
クリニック奮闘記
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クリニック奮闘記
中央最低賃金審議会は7月28日、令和8年度の地域別最低賃金額改定の目安を答申した。都道府県をAからCの3ランクに区分し、Aランク54円、Bランク56円、Cランク56円という引き上げ額が示されている。目安どおりに改定された場合、全国加重平均は現行の1,121円から1,176円となり、上昇額55円、引き上げ率4.9%となる。前年度の66円、6.3%と比べれば伸びは鈍化したものの、水準としては過去2番目の大きさである。
その後、各都道府県の地方最低賃金審議会で審議が進み、8月に入って答申が相次いでいる。注目すべきは、国が示した目安を上回る額を自主的に答申する地域が複数生じている点である。静岡県はBランクの目安を1円上回る57円、山口県は2円上回る58円という答申を出しており、新潟県、福井県、鳥取県、岡山県などでも同様の動きが報じられている。正式には異議申出の手続を経て都道府県労働局長が決定し、10月から順次発効する。
本稿では、この最低賃金改定をクリニック経営の観点からどう受け止めるべきかを、労働分配率という尺度を用いて検討する。
まず確認しておきたいのは、最低賃金の引き上げがクリニックに及ぼす影響を、最低賃金近傍で働くスタッフの人件費増だけで測ると見誤るという点である。
多くのクリニックにおいて、最低賃金の水準に近いのは、経験の浅い受付スタッフや、短時間勤務の医療事務パートである。この層の時給を50円台後半引き上げたとしても、人数と勤務時間から計算される直接の増加額はさほど大きく見えないかもしれない。しかし問題はその先にある。
例として、小児科クリニックを想定してみたい。常勤の医療事務が2名、パートの受付および事務が5名という構成である。パートのうち3名は勤続1年から2年で、時給は現行の最低賃金に近い水準にある。残る2名は勤続5年を超え、レセプト業務まで担当できるため、時給はそれより120円ほど高く設定されている。ここで最低賃金が56円引き上げられ、下位3名の時給を引き上げたとする。すると勤続の浅いスタッフと熟練スタッフの時給差は64円まで縮まる。
この圧縮が何を意味するかは、経営者であれば直ちに理解できるはずである。5年をかけて習得した知識と、入って1年の状態との差が、時給にして64円でしかないという事実は、熟練スタッフに対して明確なメッセージを送ってしまう。しかもレセプト請求の繁忙期に負荷が集中するのは、当然ながら熟練スタッフの側である。最低賃金の引き上げが、最低賃金とは無関係な層の離職を誘発しうるという構造は、賃金体系の設計を怠っているクリニックほど強く現れる。
したがって、10月に向けて検討すべきは、最低賃金該当者の時給改定額ではなく、賃金表全体の再設計である。
賃金を引き上げるという判断には、その原資が自院の収益構造のなかで支えられるかという検証が必要である。ここで有効な尺度が労働分配率である。
労働分配率は、事業活動によって生み出された付加価値のうち、どれだけが人件費として分配されたかを示す指標である。クリニックの場合、実務的には医業収入に対する人件費の比率で代用されることが多い。無床診療所では、この比率がおおむね40%台後半から50%前後の範囲に収まることが多いとされるが、診療科によって適正水準は大きく異なる。
理学療法士や作業療法士を複数抱える整形外科では、人件費率は構造的に高くなる。リハビリテーションは人の時間そのものが収益源であるため、これは経営の失敗を意味しない。他方、検査機器への設備投資が大きい消化器内科では、減価償却費が費用構造の相当部分を占めるため、人件費率は相対的に低く現れる。したがって、他院との単純な比較には意味がなく、自院の過去数年間の推移と、その変化の理由を説明できるかどうかが問われる。
10月の賃上げによって労働分配率がどこまで上昇するかを、事前に試算しておくべきである。仮に人件費が3%増加し、医業収入が横ばいであれば、分配率は単純計算で1.5ポイント前後上昇する。これを吸収できるだけの余力があるのか、それとも収入側の改善が同時に必要なのかという判断は、10月を過ぎてからでは間に合わない。
令和8年度診療報酬改定における本体3.09%の引き上げのうち、1.70%が賃上げのための財源として確保されたとされている。国が診療報酬を通じて医療従事者の処遇改善を実現しようとする意図は明確である。改定では、令和6年度に導入されたベースアップ評価料について、煩雑と指摘されていた届出手続の簡素化が図られ、加算点数の引き上げと対象職種の拡大も行われた。
ここで指摘しておきたいのは、この評価料の届出状況に病院と診療所とで大きな差があるという事実である。令和6年度の導入時点において、病院の届出率が9割程度に達したのに対し、診療所は4割程度にとどまったとされる。手続の煩雑さがその一因であったことは間違いないが、それだけではないだろう。届出をすれば賃上げの実施と報告が義務づけられるため、経営の自由度が制約されることを嫌った院長も少なくないはずである。
この点については、医療機関の自主的な経営権への介入であるという批判も専門家から提起されている。診療報酬という公定価格を通じて賃金水準にまで国が関与することの是非は、確かに議論の余地がある。一方で、届出をしなければ、他院が受け取る賃上げ財源を自院だけが受け取らないという状況が生じる。人材の獲得競争は地域内で起きるのであり、近隣のクリニックが評価料を原資に時給を引き上げれば、届出をしていないクリニックは採用面で不利な立場に置かれる。
制度への評価と、経営判断としての選択は、切り分けて考える必要がある。
日帰り手術を実施している耳鼻咽喉科クリニックを例に考えたい。鼓膜チューブ留置術や鼻中隔矯正術などを外来で行う場合、器械出しや術後の患者対応を担う看護師には、一般的な外来業務とは異なる技能が求められる。手術日の運営が滞れば、その日の収益は直接的に失われる。
このようなクリニックにおいて、全職員に一律の引き上げを行うことは、経営資源の配分として合理的とは言いがたい。手術業務を担える人材と、そうでない人材とを同じ処遇で扱えば、前者の不満は蓄積し、後者には技能習得の動機が生まれない。必要なのは、担当できる業務の範囲によって処遇が変わるという構造を、賃金表として明示することである。
これは職務等級と呼ばれる考え方であり、特別な仕組みではない。レセプト請求を独力で完結できる、新人の指導ができる、手術の介助ができるといった具体的な業務要件を等級として定義し、それぞれに時給の範囲を設定する。等級が上がる条件を明示することで、賃上げは単なる費用ではなく、技能への投資という性格を持つ。
小児科の例に戻れば、予防接種のスケジュール管理を任せられる、乳児健診の準備を独力で進められるといった業務が、等級の指標となりうる。診療科ごとに定義は異なるが、考え方は共通している。
最低賃金の引き上げは、外部環境の変化として一方的に到来する。これを受動的に受け止めれば、単なるコスト増にしかならない。しかし賃金とは、労働という経営資源を市場から調達するための価格である。調達価格が上昇する局面において問われるのは、支払う金額の多寡ではなく、支払った金額に見合う資源を獲得できているかという点である。
10月の発効まで、残された時間は多くない。自院の賃金表を確認し、引き上げ後の等級間の差が意味を持つ水準に保たれているかを検証すること。労働分配率の変化を試算し、収入側での対応が必要かを判断すること。そしてベースアップ評価料の届出について、制度への評価とは別に、経営判断として結論を出すこと。この3点は、いずれも院長にしか決められない事項である。