Vol.1237 週20時間という新しい境界線 ― 「106万円の壁」撤廃とクリニックの労働時間設計

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Vol.1237 週20時間という新しい境界線 ― 「106万円の壁」撤廃とクリニックの労働時間設計

2026年10月、短時間労働者の社会保険適用に関する要件が見直される。2025年6月に成立した年金制度改正法に基づくもので、これまで加入の目安とされてきた「月額賃金8.8万円以上」という賃金要件が撤廃される予定である。年収に換算しておよそ106万円という数字が、パートタイム職員の就業調整の基準として広く意識されてきたことから、この見直しは一般に「106万円の壁の撤廃」と呼ばれている。

 

クリニックの人員構成を考えれば、この改正が他人事でないことは明らかである。受付、医療事務、看護補助、リハビリ助手といった職種は、パートタイム職員によって担われていることが多い。しかも扶養の範囲内で働くことを希望する職員の比率が高い。本稿では、この制度変更を単なる労務手続の問題としてではなく、クリニックの労働時間設計そのものを問い直す機会として検討したい。

 

賃金の壁が消え、時間の壁が残る 

改正後、短時間労働者が社会保険の被保険者となるかどうかは、週の所定労働時間が20時間以上であるか、雇用見込みが2か月を超えるか、学生でないか、そして勤務先が企業規模要件を満たすか、という4点で判断されることになる。賃金の水準は判断材料から外れる。 

この見直しの背景には、最低賃金の急激な上昇がある。2026年度の地域別最低賃金は加重平均で1,100円台後半に達する見込みであり、大阪府をはじめとする都市部ではすでに1,200円を超える水準にある。仮に時給1,200円で週20時間勤務すれば、月額賃金は10万円を上回る。つまり、週20時間という労働時間の条件を満たしていれば、賃金要件は自動的に満たされる状態が広がっており、月額8.8万円という基準は実質的に機能しなくなっていた。制度はその現実を追認したにすぎない。 

もっとも、クリニック経営の観点から重要なのは、これによって職員が意識する境界線が「年収106万円」から「週20時間」へと移る点である。年収は年度の終盤にならなければ確定しないため、これまでの就業調整は年末に集中して現れた。11月から12月にかけて、扶養の範囲を超えそうな職員が出勤を控え、最も繁忙な時期にシフトが埋まらないという事態は、多くの院長が経験しているはずである。これに対して週20時間という基準は、雇用契約の締結時点で確定する。就業調整は年末の現象ではなく、採用時の交渉事項になる。

 

自院はまだ対象ではない、しかし 

ここで正確に押さえておくべきなのは、2026年10月の改正が直ちに適用されるのは、被保険者の総数が一定規模を超える事業所、いわゆる特定適用事業所に限られるという点である。現行の基準は51人以上とされており、常勤換算で職員数が10名から20名程度という一般的な無床診療所は、この要件に該当しない。したがって、自院には当面関係がないという判断は、短期的には正しい。 

しかし、この企業規模要件そのものが、2027年から2035年にかけて段階的に引き下げられ、最終的には撤廃される予定であることが法律上示されている。つまり、時期の問題であって、対象になるかどうかの問題ではない。10年後には、週20時間以上勤務するすべてのパートタイム職員が社会保険の被保険者となる。開業から10年、20年と事業を継続する前提で経営を考えるならば、これは制度対応というより、人件費構造の長期的な前提条件の変更として捉えるべきものである。 

なお、規模要件を満たさない事業所であっても、職員の2分の1以上の同意があれば任意に適用を受けることができる。人材確保を目的として、あえて先行的に適用を選択するという選択肢も存在する。厚生年金に加入できることを採用条件として明示できるかどうかは、有効求人倍率が高止まりしている医療事務職の採用において、決して小さな差ではない。

 

週19時間の職員を10人抱える構造の危うさ 

制度変更を前にして、経営者が反射的に考えるのは保険料負担の回避である。週20時間を超えないようにシフトを組めば、事業主負担は生じない。実際にそうした対応を取る事業者は少なくないだろう。しかし、この選択がクリニックの運営に何をもたらすかは、慎重に検討する必要がある。 

小児科を例に考えたい。冬季の小児科外来は、1日の患者数が夏季の2倍から3倍に達することも珍しくない。この変動を吸収するために、多くの小児科クリニックは短時間勤務の職員を多く抱え、繁忙時間帯に人員を厚く配置する運営を採っている。ここで全員の勤務時間を週19時間以内に抑えれば、必要な総労働時間を確保するために職員数を増やさざるを得ない。職員数が増えれば、教育に要する時間が増え、業務の引き継ぎ回数が増え、情報伝達の欠落が生じやすくなる。予防接種のスケジュール管理や、乳児健診の予約枠調整といった、誤りが許されない業務ほど、担当者が分散することのリスクは大きい。 

耳鼻咽喉科で日帰り手術を実施している施設では、この問題はさらに鮮明になる。手術介助に習熟した職員を育てるには相応の期間を要する。その職員を短時間勤務にとどめれば、手術日の人員配置が特定の個人に依存する構造が固定化する。整形外科のリハビリテーション部門においても、患者との継続的な関係が治療効果に影響することを考えれば、担当者が細切れに交替する体制は望ましくない。 

保険料負担の回避は、目に見える形で人件費を抑制する。しかし、それと引き換えに生じる教育コストの増大、業務品質の不安定化、特定個人への依存といった費用は、決算書のどこにも計上されない。この見えない費用を織り込まないまま週19時間の職員を増やす判断は、財務上は合理的に見えて、経営上は合理的でない可能性がある。

 

増やす方向で設計するという選択 

もう一方の選択肢は、対象となる職員の勤務時間をむしろ増やし、社会保険の適用を前提とした雇用に転換していく方向である。事業主負担は増えるが、その代わりに1人あたりの労働時間が延び、職員数を抑制できる。 

この方向を選ぶ場合、職員本人への説明が決定的に重要になる。社会保険への加入は、本人にとって保険料負担の発生という不利益と、将来の年金額の増加および傷病手当金や出産手当金の受給資格という利益の双方をもたらす。特に医療事務職には女性が多く、出産手当金や傷病手当金の対象となることの意味は小さくない。国民健康保険にはこれらの給付が存在しないことを、正確に理解している職員は多くない。手取り額の減少という一点だけを見て不安を抱いている職員に対して、給付面を含めた説明を尽くすかどうかで、制度変更が離職の引き金になるか、定着の契機になるかが分かれる。 

制度の適用に伴って労働時間を延長し、あるいは賃金を引き上げる事業者に対しては、国による助成の枠組みも用意されている。要件と支給額は年度ごとに見直されるため、活用を検討する場合は最新の内容を確認したうえで、労働時間の再設計と併せて計画することが望ましい。

 

労働時間設計は経営戦略である 

「106万円の壁」の撤廃は、パートタイム職員の働き方に関する制度的な誘導が、就業調整を抑制する方向へ明確に舵を切ったことを意味する。国が労働供給の制約を深刻な課題と認識している以上、この方向が反転する可能性は低い。クリニックにとって、これは人件費の増加要因であると同時に、労働時間設計を根本から見直す機会でもある。誰が何時間働き、その時間で何を担うのか。繁忙期の変動を人数で吸収するのか、時間で吸収するのか。属人化を避けるためにどの業務を標準化するのか。これらはいずれも、制度の有無にかかわらず経営者が答えを持つべき問いである。2026年10月という期日は、その問いに向き合う契機として利用するのが賢明であろう。制度が変わってから対応を考えるのでは、就業規則の改定にも職員への説明にも時間が足りない。

 

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