Clinic Diary
クリニック奮闘記
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クリニック奮闘記
厚生労働省の集計によれば、2026年3月31日時点の医療法人数は5万9,893法人に達している。その大半は、常勤の医師が1人または2人の診療所を開設する、いわゆる1人医師医療法人である。開業医にとって医療法人化は珍しい選択ではなくなったが、その判断の根拠は、税理士から「そろそろ法人化を」と勧められたという程度にとどまっていることが少なくない。
法人化の検討が本格化するのは、毎年秋から冬にかけてである。多くの都道府県では医療法人の設立認可申請を年2回受け付けており、例えば大阪府では第2回の設立事前登録が11月初旬から下旬、仮申請書類の提出が翌年1月に予定されている。静岡県の後期分の事前協議書の提出期限は10月30日である。来年度の法人化を視野に入れるのであれば、判断の材料を10月中に揃えておく必要がある。
本特集では、医療法人化と事業承継を、税率の比較や売却価格の多寡ではなく、経営の「数字」と行政の「手続き」の両面から検討する。第1回となる本稿では、法人化を判断するための基準を整理する。
法人化の効果として最もよく語られるのは税負担の軽減である。個人の所得税は累進課税であり、最高税率は45%、住民税を加えれば55%に達する。法人化すれば、診療所の利益は法人の所得と院長個人の役員報酬に分けられ、それぞれに異なる税率が適用される。この構造が節税効果の源泉である。
ただし、この比較には見落とされやすい前提がある。第25回医療経済実態調査によれば、個人立の一般診療所の損益差額は平均2,631万円であり、医療法人立の一般診療所の院長給与は平均2,898万円であった。健康保険組合連合会の分析では、一般診療所の損益差額率は個人が28.8%、医療法人が4.8%とされている。一見すると個人立のほうが格段に収益性が高いように見えるが、個人立の損益差額には院長自身の報酬が含まれ、医療法人立では院長給与が費用として差し引かれている。つまり法人化とは、院長の報酬を事業の費用として切り出し、診療所という事業と院長個人の家計を制度上分離することにほかならない。
この分離には代償がある。医療法人は剰余金の配当が禁止されており、法人に残した利益を院長が自由に引き出すことはできない。法人の資金を個人に移す主な手段は役員報酬と役員退職金であり、とりわけ退職金は退職所得として課税上優遇されるため、法人化による節税の多くは、退職時まで課税を先送りする効果として現れる。院長が毎年の所得をほぼすべて生活や個人の資産形成に充てる必要がある場合、法人化の効果は想定よりも小さくなる。
税制の動きも確認しておきたい。2026年4月1日以後に開始する事業年度から、防衛特別法人税が創設された。基準法人税額から500万円を控除した額に4%を乗じる付加税であり、法人税額が500万円以下の小規模な医療法人では実際の負担は生じないが、申告手続きは必要となる。また、社会保険診療報酬が5,000万円以下で、医業収入の総額が7,000万円以下の個人開業医は、措置法26条による概算経費の特例を選択できる。この特例を適用して有利な申告をしている診療所では、法人化による税負担の軽減幅は限られることが多い。
法人化によって新たに生じる負担も、数字で把握しておく必要がある。最も大きいのは社会保険である。個人の診療所は常時使用する従業員が5人未満であれば健康保険・厚生年金保険の適用は任意であるが、医療法人は職員数にかかわらず強制適用となる。事業主負担は給与のおおむね15%程度に達するため、職員4名で社会保険に未加入の診療所が法人化すれば、人件費は年間で数百万円単位で増加しうる。
事務の負担も増える。医療法人には理事3人以上と監事1人以上を置く必要があり、決算後は3か月以内に事業報告書等を都道府県に届け出なければならない。さらに2023年8月以降は、診療所ごとの収益と費用を報告する経営情報等の報告も義務付けられている。役員変更の登記、社員総会の開催と議事録の作成など、個人開業では不要だった手続きが毎年発生する。これらを院長が自ら担うのか、事務長や外部の専門家に委ねるのかも、法人化前に決めておくべき事項である。
法人化の効果を左右するのは、院長の役員報酬をいくらに設定するかである。役員報酬は原則として事業年度の開始から3か月以内に定め、その年度中は毎月同額で支給しなければ、法人の損金として認められない。期中に業績が想定を上回っても報酬を増やすことはできず、下回っても簡単には減らせない。したがって、法人化の前に向こう数年の収支見込みを立て、院長と家族の生活費、個人での借入の返済、個人の資産形成に必要な金額を積み上げたうえで報酬額を決める必要がある。
家族を理事として報酬を支払う場合には、勤務の実態に見合った金額であることが前提となる。法人に残す利益についても、将来の設備更新や分院開設の資金として使うのか、院長の退職金の原資として積み立てるのかを、あらかじめ決めておくべきである。資金の出口が定まっていない法人化は、院長の手元資金を不自由にするだけの結果に終わりかねない。
それでは、法人化が合理的な選択となるのはどのような場合か。第1は、院長の所得が高い水準で安定しており、今後もその水準が続く見込みがある場合である。第2は、分院の開設や事業の拡大を計画している場合である。個人の医師が管理者として複数の診療所を管理することは原則として認められないが、医療法人であれば複数の診療所を開設できる。第3は、事業承継を見据えている場合である。医療法人では理事長が交代しても開設者である法人は変わらないため、保険医療機関の指定、賃貸借契約、リース契約、職員との雇用契約が原則としてそのまま継続する。個人の診療所の承継では、これらがいったん途切れることになり、その手続きは本特集の第3回、第4回で詳しく扱う。
なお、2007年3月以前に設立された出資持分のある医療法人を経営している院長は、別の論点を抱えている。持分の評価額が高くなっている場合、承継時の相続税や持分放棄に伴う課税が承継の障害になりうるためである。持分のない医療法人への移行を税制面で支援する認定医療法人制度は、令和8年度税制改正によって2029年12月31日まで延長された。期限が延びたことは猶予ではなく、移行計画を検討する時間が与えられたと受け止めるべきである。
日帰り手術を行う耳鼻咽喉科のあるクリニックでは、医業収益が1億6,000万円を超え、院長の所得は最高税率の水準に達していた。院長は5年以内に近隣の駅前に分院を開設する構想を持っていたため、法人化を決断した。その際、手術に関わる施設基準と医療機器のリース契約を法人に引き継ぐ必要があり、保険医療機関の指定日を途切れさせないための手続きを、法人化の予定日から逆算して進めた。
皮フ科・形成外科のあるクリニックでは、自費診療の比率が3割を超え、措置法26条の適用対象から外れていた。開業5年目で所得が伸び続けていたことから法人化を選択したが、あわせて保険診療と自費診療の会計区分を見直し、診療所ごとの収益と費用を報告できる体制を整えた。
一方、循環器内科のあるクリニックでは、62歳の院長が法人化を検討したものの、職員4名が社会保険に未加入であったため、試算すると社会保険料の増加が税負担の軽減を上回った。後継者も決まっていなかったことから、院長は当面は個人のまま経営を続け、承継の方法が定まった段階で再検討することにした。法人化を見送ることもまた、数字に基づく正当な経営判断である。
法人化した場合、開設者が院長個人から医療法人に変わるため、保険医療機関はいったん廃止され、法人として改めて指定を受けることになる。理事長が従前の院長である法人化は、遡及指定を受けやすい類型として整理されているが、手続きの期限を守らなければ保険診療に空白が生じる。外来医師過多区域では開設前の届出も問題となりうる。法人化の判断は、税と社会保険だけでなく、こうした手続きの工程を含めて行う必要がある。詳細は第3回で取り上げる。
開業当初は個人で開設し、所得が安定した段階で法人化を検討するのが一般的である。ただし、その判断を数年後に正しく下すためには、開業初日から院長個人の家計と診療所の会計を明確に分け、月次の試算表を作成しておく必要がある。法人化は、それまでの経営が数字で説明できる診療所にとってのみ、有効な選択肢となる。
医療法人化は、税金を減らすための手段ではなく、診療所という事業をどのような「器」に入れて運営し、最終的に誰にどう引き継ぐのかという選択である。税率の比較は判断材料の1つにすぎない。社会保険、事務負担、資金の出口、そして承継の見通しを並べたうえで判断することが、院長に求められている。次回は、承継やM&Aの場面でクリニックの「値段」がどのように決まるのかを検討する。